* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
MRIによる脳の断層像
養老先生は無神論的ニッポン人インテリ層の典型ですが、書き物は実に面白い。「壁」シリーズもさることながら、今日は『記憶がウソをつく!』(扶桑社)を紹介したい。これは例の絶叫型言語魔術師的実況アナウンサーの古舘氏との対談であるが、実に面白い。
人の心が脳の活動と表裏一体をなしていることは前に少し書いたが、その脳はしばしば騙されることがよくある。私たちが見ている"物"はすでに視覚系で情報処理された結果である。素のままの物ではない。
かつて寿町にいた頃、裸足のオッチャンがえらく喜びながら、「先生、オレ、東大から博士号をもらいました!」と"報告"してきた。「えっ!、何の研究で?」と聞くと、「江戸時代の研究です!」・・・小生はどう答えてよいか分からず、とりあえず「それはよかったね、苦労したかいがあったね」と言うと、真に喜ばしい表情を見せるのであった。・・・後日彼は「文学博士 ○○○」と書いた名刺をくれた。(→http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing15.html)
ソレは彼の大脳が作り出した幻想であるが、彼にとってはリアリティなのである。私をカルト教祖と訴えている人も、私が妄想の世界に生きていると主張しているが、ソレは彼にとってはリアリティなのである。前に書いたが、まさにジャック・ニコルソンの『カッコーの巣の上で』の世界となる。
黒沢明の『羅生門』においてもひとつの事件の3人の当事者の証言が微妙に食い違っている人の心の闇を描いているが、このようなわけの分からない事態が生じるのは多分にこの脳の性質による。「記憶の錯誤」というが、脳が認知した"事実"を感情が歪めてしまう。つまりこの認知された"事実"はすでに事実ではない。
かくして人の話を聴くときには、その人の思い(mind)と感情の関わり方を十分に注意して聴く必要がある。その証言はしばしばバイアス(偏向)されているからだ。白い紙を赤いめがねをかけている人と青いめがねをかけている人の証言は自ずと異なる。よって証言内容そのものだけではなく、証言者を観察する必要がある。
今、あるカリスマ系の教会がカルト化しているとのことで、ネットやメディアで叩かれているが、このような場合の告発は、する際も、聞く際も、よほど注意する必要がある。しばしば火の元は個人的因縁がらみの場合が多いし、よってその告発や証言も相当にバイアスされている可能性が高い。
BBSでも質問を受けたが、告発する雑誌が、かつてはその教会の機関紙的なものであり、ある事件で袂を分かってから犬猿の関係になったようである。その雑誌側もその教会を「ぶっ壊す」と言った動機で告発しているようであり、よってその告発は相当に色がついているだろう。事実、記事の内容も医学的に不正確である。
またこれは神学論争もしかり。人が選択する神学の立場はその人の精神病理と密接に関係している。イスラエルに入れ込む人も、反イスラエルの人も、私はその人たちの発言内容よりも、その人たちの動機あるいは霊の状態の方に関心がある。私はイスラエルは好きであるが、イスラエルに入れ込む人たちの一種のヒステリー的反応には辟易する。かつてガンジーが「わしはイエスは好きじゃが、キリスト教徒は嫌いじゃ」と言ったとか言わないとか。
エレミヤは「人の心ははなはだしく病んでいて、癒しがたい」と言っているが、これは私たちの大脳の性質による以上、この古い幕屋(体)に閉じ込められている限り、クリスチャンにとっても真理である。否、むしろ、クリスチャンの方が嫉妬や妬みや競争心などを互いにむき出しにする傾向が強い。そして議論ではなく、相手の人格否定に至る。
かくして教界の中で偉いセンセイ方の間での競合や足の引っ張り合いなど、見かけは神学論争の形をとっても、実は感情論の粉飾であったりする。いわゆる○○派なるものも、しばしばその人たちの精神病理が絡む。同じような病理をもつ人たちは自然と共鳴現象を起こす。よっていわゆるエキュメニカル運動で教義や信条で一致することなどは決してできない。根本にはそれぞれの病理があるからだ。
私には、メインラインはそれなりの、福音派もそれなりの、聖霊派もそれなりの、ある一定の傾向を帯びた人たちの集合に見える。そして最近気がついたのは、メインラインは福音派を、福音派は聖霊派を、順次見下している事実だ。メインラインからすると福音派はカルト、福音派からすると聖霊派はカルト。これでは江戸時代の士農工商、ひいてはエタヒニンと同じ構図である。このような状況で聖なる霊が働かれるであろうか?
思想・政治をはじめ、経済も、社会も、人の心が生み出すものである。そしてその心の働きは大脳と言うまことに歪んだ認知や記憶を作り上げるモノと表裏一体である。私がいわゆる論理的整合性のある思想や主義に不信感を覚えるのはその辺りに理由がある。自然科学を知っている者からすると、神学や政治思想などはきわめて曖昧な体系としか映らない。
ヴィッドゲンシュタインはその著『論理哲学論考』において、「言語は世界の映像である」と言っている。その映像はしばしば個人のバイアスや恣意が入る。かくしてクリスチャンたちの神学論争や、政治論争、預言解釈論争などがいかに個人的な性質のものであるか分かる。かくしてある種の病理を共有する人々がある一定の神学なり解釈を共有し、○○派や○○運動が生まれては消え、消えては生まれで、この2,000年に渡る教会歴史が刻まれてきた。
対してスポーツが爽快なのは、この恣意的要素を排して、きわめて明確に白黒がつくからである。オリムピックもそういう人工的な閉鎖空間で、人工的なルールの下、できるだけ心のバイアスや恣意性を排して、ある一定の能力だけを測ることができるわけである。オリムピックの開会式の様を見て、全世界の選手がひとつにまとまり、素晴らしい光景が展開しているとアナウンサーは絶叫しても、私はある意味で白けていた。「主はこの光景をどのようにご覧になっているのか」。
主を排除したきわめて人工的なひとつ。ある一定のフレームに押し込まれたひとつ。この光景はどこかと共通している。そう、「自由と平等」のアメリカの人工的な国づくり、そしてキリスト教界のエキュメニカル運動である。それと今放映している「24時間テレビ・愛は地球を救う」。それらは所詮人の作為によるものである。いずれ暴かれるであろうし、その時に人の心の歪みに気がついて主に立ち返る人は幸いである。
キリストを排除したものはすべてフェイクである。キリストこそすべてのすべて、ありとある物の実体(リアリティ)、すべてをひとつへともたらす究極存在である。ここにこそ私たちの心の歪みからの救いがある。