* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
どうもニッポンキリスト教と触れていると、クリスチャンって一体何よ、と疑問を覚える場面が多い。いろいろな運動や神学があって、互いに張り合ったり、相手が間違っていると異端のラベルを張り合って・・・と。
一方にはエキュメニカルという運動があって、互いの教理を認め合ってひとつになりましょう・・・と。しかし私たちはマリアを礼拝すること(彼らは崇敬と言うのだそうだが)は認められないし、仏教でもヒンズー教でも何でもかんでも救われるとは言えない。救いを与える名はただイエスだけである。クリスチャンのアイデンティティを決めるミニマムというものがある。
一方で分裂に次ぐ分裂、他方で人工的な<ひとつ>を作る運動。クリスチャンの本質はどこにあるのか。それはキリスト教徒になることではなく、キリストのいのちを吹き込まれること。内にキリストを宿した存在がクリスチャンである。教会とはそのような器が団体としてキリストを証しする生ける有機体である。人間が歴史上組織してきた教団や教派とは関係がない。いのちの有機体、これがエクレシアである。互いにいのちを共有し、内なるキリストを交換する場である。
今日のメッセージでは、石の板に書かれた旧約律法は廃棄され、私たちの心に書かれた新約の律法―内なるキリスト―について交わった。同時にレビ系の祭司制度から、メルキゼデク系の祭司制(=キリスト)に変わった。まことのいのちの木なるキリストを私たちのうちに生かすことが神のご計画である。内なる律法とはキリストである。キリストが自らその律法を生きてくださる。このいのちを実体化する方が御霊であり、御霊は私たちのうちにキリストを生かしてくださる。アブラハムへの約束はすでにキリストにフォーカスを置いていた。私たちの責任はただ信仰。信仰を生むのは愛。かくして愛を通して働く信仰だけが尊い。
クリスチャンがただキリストだけにフォーカスすれば話はもっと単純になるはずであり、これがリバイバルであろう。リバイバルとは死んでいたいのちの現れである。クリスチャンの間で神学者の名前はよく聞いても、イエスの御名をあまり聴くことができないのは不思議である。もっとイエスの甘さや魅力について交わることができないものか。この一人のお方との関係に生きること。内なるいのちの御霊の法則に乗って、内なるいのちを享受する人たち。これがクリスチャンである。
「もっとも本質的なこと」
http://www.kingdomfellowship.com/Column/flowing33.html