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祝福と狂気の間−誰がために無駄になるや−

Time誌のアメリカ軍の虐待の特集の内容は酷かった。言葉が出ない。

人が狂うときがある。自分や自分の達成を否定されたとき。クリスチャンはキリストにアイデンティティを置いていれば、つまり十字架にとどまれば、このような誘惑から守られる。が、時にクリスチャンでも狂ったように怒る者がいる。自己愛と言う心の病を抱えている。

もうひとつは意味のない仕事を強制されるとき。かつての中国で文革が真っ最中のとき、労改に収容された囚人は、穴を掘っては埋め、穴を掘っては埋めの単調作業をさせられて、多くの者が狂った。現在のアメリカ兵も同じ。事実自殺者や心を病む者が多いと聞く。

文革の時代にウォッチマン・ニーがいた。彼は最後まで主に忠実であり続けた。私の元には彼の死の日に書いた手紙の写真があるが、「私は喜んでいる」と証している。その日に彼はトラクターの上でぼろきれのように召された。人生の収穫の時期であるべき52歳から72歳まで、人から見れば意味のない20年間の幽閉生活。彼がどんな霊的生活を送ったかは知る由もない。主だけがご存知である。

自分の業績を誇り、自分を売り込み、自分の達成に満足する先生方が多い今日、主のために無駄になる生き方を志すクリスチャンはどれほどいるであろう。若き日のニーは言っている:「ああ、主のために無駄になることの祝福よ!」彼はその祝福の深みを知りつつ、主の元へと召された。主にあってジェラシーを覚える。

(ネットではウォッチマン・ニーをカルト扱いしているサイトがある。彼らの論評はほとんどが的外れである。"彼らの理解したニーの教え"に対して、自ら反論しているだけである。サルが鏡を見て攻撃するが如し。自らの心を暴露しているだけである。)