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「霊と魂」再考

私が「パッション」騒動に感じる違和感は、映画がリアルに良くできているできていない、ではなく、結局のところ、霊と魂の次元を混同していることにある。

はっきりと言うが、どんなによくできていようといまいと、それは魂の次元のものに過ぎない。その感動は単なる魂と神経系の興奮に過ぎない。「パッション」と「キャシャーン」とどこが違うのか。もし「違う」という人があれば、すでにフェイクとリアリティの混同に落ちている。このようなものをたいそうに扱う人々の内面性がコワイ。オタクである。しかしリアリティはどこにあるのか?霊の次元である。

19世紀から20世紀初頭にかけて、ジェシー・ペン・ルイスやオースティン・スパークスらが警鐘を鳴らしていた:「今後の教会は魂の力による魂の次元での現象を追求するようになるだろう」と。彼らの予言は的中している。一方で「パッション」や世に媚びる砂糖まぶしの「福音」、一方で金歯金粉の追求。

御言葉は霊と魂を切り分ける。それには痛みが伴う。十字架は私たちの霊と魂の間に切り込むのであり、この分離によってのみ、私たちは霊的リアリティとタッチすることができる。

「思い(Mind)」をくらますことが終わりの時代の敵の策略である。これは信者・未信者を問わない。次のように書いてあるとおりである:

2cor: 4:4
そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

2cor:11:3
しかし、蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、万一にもあなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真実と貞潔を失うことがあってはと、私は心配しています。