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主の十字架と自分の十字架

ニッポンの病理のコワイところは、「一色」になることである。チャーチスクールが流行ると、われもわれも、と。「パッション」がいいとなると、また同じ。

木村敏という精神病理学者は、分裂病の原因は人と人の「間の病理」であると、言っている。つまり距離感を喪失している。分裂病の方は、あるいは心を病んでいる人は、たいていここに問題を抱えている。昨日書いたように、ベッタリ(陽転移)とその裏返しの恨み(陰転移)との間を揺れ動く。

ニッポンはすでに分裂病であると言ってきたが、ニッポンキリスト教も同じ。はっきり言うが、病んでいる。その距離感の喪失は実は希薄なアイデンティティによる。だからニッポンキリスト教徒は、映画などのメディアで世の中に取り入れられると喜ぶわけであるが、実は世との距離がすでに取れていない。

チャーチスクールやパッション現象を見ていると、ますます私の診立てが正しいことを確信するが、そこから出る予後予測(これはまだ公表していない。多分受けられることはないだろう)にも蓋然性が高くなる。

ただこういう言い方はしておこう。現在はリバイバルどころではなく、純粋な信仰のサバイバルの時代である。そして真理を語ることが、例えばフランスなどのように、むしろカルトとして排斥され、世に媚びるお体裁の「福音」がもてはやされることであろう。

パッションを観て"感動した"人にはこう言いたい:

主がそこまでして勝ち取ってくださったものをあなたは自分の十字架を負って守ることができるか?