* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
どうも聖霊派系の逸話というか、伝説というかを聞いていると、霊能力者まがいの人が、次々に現れ、彼らこそ素晴らしい人であるらしい。私から診ると幻聴か幻覚ではないの(怒らない下さいね)?と思えなくもないのですが(笑)。私も異言で祈りますし、神の声も聞きますし、幻も見ているのですが、「どこか違う」という印象がぬぐえません。
あるホームレス伝道で有名な女性牧師は、突如姿を消したかと思ったら、まったく別の所に現れたりとか(現代のピリポだよ)、はたまた空中を飛ぶようにして移動していたりとか(ドラえもんの話ではありません)・・・・ウ〜ムです(汗)。ちなみにこの話は麻原さんも愛読した学研の雑誌『ムー』に出ていました。
かと思うと、あるアルゼンチンの有名なリバイバリストが祈ると手のない人の手がニョキニョキ生えてきたとか(再生医学ではEB細胞から臓器を作ることもできますが)。アナコンダさんではなく(これはヘビの名前だ)、アナコンディアさんでしたか・・・?これもウ〜ム。
かと思うと神の声を次々に聴くためにのノートを取るのでいそがしく、とりなしをすべきメッセンジャーの話を聞く暇もないとりなしの賜物がある女性の話とか・・・???あるいは、そろそろアメリカの西海岸が火の海になる幻を見ている預言者とか・・・???
しばしばこういった霊能力を誇る人々の家庭や人生には健やかさがない。人間として普通ではなく、少なからず病んでいる。当たり前が当たり前でない。しかしそれが逆に"霊的であること"のひとつの"勲章"になる。私が聖霊派に感じるのは、「あなたの知らない世界」、「何かおどろおどろしい世界」、少なからず恐さを感じますし、情念の世界というか、何かジメッとした感じを覚えるのです。
聖霊派系の雑誌とか新聞から立ち上る独特の"臭い"があります。ニンニクの臭いの立ちこめる部屋にいると鼻が馬鹿になります。本人は分かりません。しかし外の新鮮な空気を吸っていると、すぐに分かります。これは理屈ではありません。だから聖霊派の教理や聖書解釈が正しいとか間違っているとか言う以前に、その臭いが鼻につくのですね。
もう一度言います:霊的になる、聖化されるとは、人になることです。それはあまりにも普通のこと過ぎて、聖霊派の方々の関心はほとんど引かないでしょう。しかし人であることは、それだけで祝されているのです。健やかさ、健全さ、爽やかさ、単純さ、明朗さ、明るさ、平安と安息、伸びやかさ、解放感、満足感、リラックス、自然体・・・。人間であることをエンジョイするのです。
聖霊はイエスのパースンを私たちのうちに造り込む方であり、イエスの聖を実体化してくださる方です。
●Uテモテ4:3−というのは、人々が<健全な教え>に耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め・・・
●テトス1:9−教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは<健全な教え>をもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。
●テトス2:1−しかし、あなたは<健全な教え>にふさわしいことを話しなさい。
そしてヨハネはこう祈っている:
●3ヨハネ1:2―愛する者よ。あなたが、たましいに<幸い>を得ているようにすべての点でも<幸い>を得、また<健康>であるように祈ります。