* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
ニッポンキリスト教と関わって驚いたことがある。それは心を病んでいる人がきわめて多いと言うことだ。統計をとってはいないが、罹患率は世間の平均を越えるだろう。ヤヤコシイ人、粘着な人がとても多い。当たり前が当たり前にできない人が多過ぎる。
人生をエンジョイするコツは、すべてを単純にすることである。かつては私も青白きインテリをやっていましたが、当時は簡単なことをややこしくするのが得意だったのですね。疲れる生き方でした。
寅さんに「とかくインテリと申しますと、テレビの裏の配線のようにごんがらがっていて、色気が頭に上り、イロノーゼにかかります。そこいくとあっしなんざあ、配線は1本だけですから、頭を叩くとコーンと澄んだ音がいたします」という名台詞があるが、病んでいる人はみな自分で事をややこしくし、自分ではったクモの巣にからまっている。ご苦労なことである。
パウロは言っている:「食べ物と着る物があればそれで事足れりとすべきである」と。主は「その日の苦労はその日で十分である」と言われた。キリストにあって軽く生きるコツはすべて単純をするにすること。禅の言葉にこうある:「見性(悟り)とは、腹減れば飯を喫し、睡来たれば眼を合す。花紅柳緑、眼横鼻直。当たり前は当たり前で良いではないか。」
善悪を知る知識の木の実を知って自意識に目覚めた人間の心は意識作用によって汚れを受ける。心が二元論の世界であれかこれかと分裂しさ迷うのである。またある事に執着する。「水は万境に従って転ず。転ずるところ実によく幽なり。」とあるとおり、心もサラサラサラサラ流れることが健康の秘訣。
ところがどうもクリスチャンたちは粘着系の人々が多いようで、自分の聖書解釈を決して譲らず、あくなきギロンのド壷にはまる御仁も多いようである。主は「魂を救おうとすれば失い、失えば救う」と言われた。ニッポンキリスト教徒はどうもこれと正反対の生き方をしているようだ。イロノーゼ・クリスチャンがあまりにも多過ぎる。