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まことの十字架-メル・ギブソンの映画の罠-

27日の日記で、メル・ギブソンの映画について「少し楽しみ」と書いたが、これには意図(わけ)がある。

ユダヤ人が、またぞろ差別を受け、迫害を受けるからと騒いでいるようであるが、これは彼らのパラノイドによるとして、クリスチャンがこの手の映画を手放しで歓迎するのもおかしい。

主は言われた「わたしに従いたい者は、自分を否み、自分の十字架を負ってわたしに従え」と。主はすでに十字架を負ってくださっている。今真に必要なのは、わたしたちのひとりひとりの十字架である。

この映画を見て、主の愛を感じて、涙するクリスチャンもいるのだろうか?しかし、しばしば彼らは自分の十字架を避けている。この映画が自分の十字架からの逃避の理由付けとなることを、私はむしろ懸念する。それとも信仰が深まったとか言うのであろうか。ならば、そもそも自分が何を信じているのか問うべきであろう。これを見ようが見まいが、私の信仰には何らのかかわりがない。

主は言われた、「見ないで信じる者は幸いである」。この手の目に見えるものは罠になる。主の十字架の意味がわかった"つもり"になる危険性である。今の私たちに必要なのは目に見えない霊的リアリティであり、それは永遠のものである。

まあ、この手のトピには私はいつもながら距離を置きつつ、冷ややかにという姿勢を取ることにしている。よって「少し(a little)」なのである。