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人として共有し得ること

▽『白い巨塔』がひとつの区切りを迎えました。今回は関口弁護士がトラウマを抱えて屈折しているキャラクターとしてヒネリが効いた設定になっています。彼がどのような形で終わるのでしょうか?

▽私もかつて8年に及ぶ裁判を闘ったことがありますが、確かに裁判は弁護士次第です。はっきり言いますと、裁判は法廷の外で決まります。面白いのは同じ事件でありながら、弁護士によって勝ち取る成果がまったく異なるのです。裁判の自立性によって、独立した訴訟として処理されるためです。

▽私たちの弁護士は実は共産党系の方々でした。彼らの正義感の強さと真実さに私は正直言って深く感銘を覚えました。同じ事件においても他のいわゆる体制側につくような弁護士の原告団はまったくダメでした。クリスチャンが共産党系の弁護士によって救済されるという構図も面白いですが、神は用いて下さるのです。

▽共産主義も"無神論"という信仰のひとつの形態であるのですが、信仰の壁を越えて互いに享有し得ることがあるのです(共産主義そのものを良しとしているのではないですよ)。とかくクリスチャンは熱心なほど、彼らはサタンの側につく者、自分は神の側として水戸黄門の印籠をひけらかして、「下がれおろ〜」とやりがちなものですが、この辺にニッポンキリスト教の貧しさがあると思います。

▽「聖霊カリスマ運動」もけっこうですが、実はそれを推進する人々の人格とか、高潔さとか、高貴さなどを人々は見ているのです。そして賜物をひけらかすことと、イエスの性質を帯びることはしばしばトレードオフ(両立せず)の関係にあるようです。