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「正しさ」とは?―霊と魂の分離―

▼クリスチャン系のBBSを見ていますと、いやはや、ニッポンキリスト教徒は議論好きですね。互いに口角泡を飛ばして譲らず・・・。疲れるでしょうに。

▼そもそも自分の主張の正しさを論理の正しさによって訴えることが自体が問題なんですね。ゲーデルの「不完全性の定理」というのがありまして、論理の限界が明らかにされているのです。どうも神学者やモドキの人にはもうちょっと勉強していただく必要があるようです。

▼結局これらの主張の中心にあるのは、どちらの側にせよ、「自己」なのです。この「自己」を否定されることは決して認めることができないわけでして、これはアイデンティティに関わるからなんですね。自分の正しさを主張して譲らないのは、エデンの園で「善悪を知る知識の木」の実を食べて、霊の死によって真のアイデンティティを喪失したがために、魂の肥大化を起こし、そこに「自己」を置いている人々の悲しい性です。

▼BBSにも書きましたが、私はいわゆる聖書的整合性のある理屈は好みません。それが一部の隙もないかのように理路整然と組み立てられていればいるほどに、実はその霊的内実の空虚さを露呈するからです。啓示は矛盾だらけです。例えば、「3パースンズにしてひとりの神」など。

▼実存を知性に投影する時には必ず矛盾が生じるのですが、禅ではこれを嫌います。直接経験を大切にするわけです。禅的哲学者の西田幾多郎は理性を超えた実存の純粋経験を「多即一の絶対矛盾的自己同一」の経験であると言い、鈴木大拙は「AがAであり、同時にAでない」という「即非の論理」を提唱した。物理的実在である電子ですら、知性に投影すると、粒子であり波でもあるという矛盾した像を見せるが、人間の知性に対する神の挑戦でもあるように感じる。「わたしの創造、さらには創造主であるわたし自身があなたのその小さなオツムに入りきるかな?」と。

▼どうもニッポンキリスト教徒は頭は(中途半端に)でっかく、霊がまことに小さくかつ弱いようである。

 
 >神は霊であるから、霊と実際によって礼拝せよ(ヨハネ書)

 >人は知性によって神を認めるに至らなかった(ロマ書)