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ふぅ〜、終わったぁ〜

今日でS台での授業は終わり。高校生に9時まで教えるのは年々きつくなっているなあ。

昨日の日記に同感というメールをいただいて、少々ホッとしている。この手のことを書くと、キリスト教原理主義者からは「反ユダヤ的陰謀論者」とレッテルを貼られるからだ。

彼らは自分たちの聖書解釈を絶対的フレームとして、それを通してしか事実を見ない。よって自然な感情がどこか損なわれているという印象を否めない。血を見れば心が痛む(私も痛みますよ)、人の死にはうめきを覚える。

エレミヤなどの預言者は多分にこの感受性が鋭く、豊かであったのだろう。神の感受性とひとつになった感受性である。神は朴念仁を用いることはない。繊細な霊的感受性を養う必要がある。

最近の課題は、人間性を享受することとすでに書いたが、当たり前を当たり前にとも言える。ニッポンキリスト教で混乱し、悩んでいる方々の話を聞くとここがはずれて、霊能力者を求めたり、学者やカウンセラーを頼る傾向がある。

夢見さんがBBSで書かれたとおり、キリストの御座で私たちはきわめて個人的に裁かれる(滅びへの裁きではない)のである。これによって受ける報いが査定される。再度繰り返すと、主は「あなたはどうだったか」と言われる。私たちはどう答えるべきであろうか?ただ主にお会いできることを喜ぶことができるであろうか?

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唐沢財前は評価が分かれているようである。前のを知っている人々には不評、若い人々には好評だそうだ。私は頭を切り替えて、まったく新しいドラマとして見ている。さて、始まるぞ・・・。