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教会の秩序と個人の自由

私はこれまでニッポンキリスト教の律法的思考でガチガチになっている人々に、「○○すべし」とか、「○○は禁ずる」などの菓子箱にはまるような生き方をするのではなく、「私たちにはすべてのことが許されている、しかしすべてが益になるわけではない」を基準として、自分で判断するように導きを与えてきた。またキリストにある自由と罪定めからの解放をメッセージしてきた。

が、今回、とんでもない勘違いをしている人たちがいることが判明した。私たちはすべてのことから自由であるが、その自由を肉の働く機会としてはならないとある。またキリストにあって罪定めされないが、各自は自分の行動の責任を自分で刈り取る必要がある。真の自由を享受するには責任が伴う。

今回の「重大な決断」とはまさにこの問題を取り扱うことであった。放置すれば破廉恥な犯罪となり得る事態であるにもかかわらず、本人はその認識がなく、事の道理がわからない。キリストの体である教会の秩序を個人の自由を盾にして肉の働くままに乱すものは交わりから取り除かれる必要がある(1コリント5:11)。

私たちは自分で恵みによる祝福の道か、罪の刈り取りののろいの道かを選ぶのである。これは神の前と人の前における信仰の歩みにおいて厳粛な真理である。大リバイバルの預言で喜ぶ前に、ニッポンキリスト教はひとりひとりがキリストにあるオトナになる必要があろう。