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捨てること−サラサラと生きる

ここ1ヶ月ほど家の中の不用品を片付け、大整理をしているが、出ること、出ること、要らないものが。捨てても捨てても・・・。面白いもので、何となく使えるからとか、いつか必要になるかもとか言いつつ、溜め込んであるわけ。人生もこんなものなのでしょうね。溜め込めば溜め込むほど自由が利かなくなるのですが、なぜか溜め込んだ方が安心するような感じがするわけ。

かくして、様々の地位や肩書きを、子供がワッペンをぺたぺた貼るように得たくなるわけです。あるいは自分の教会の教勢がこうなったとか、礼拝堂をいくつ献堂したとか、手柄のご披露となり、散々自分をひけらかして後、ようやく最後に「すべての栄光を主にお返しします」とやるわけ。この言葉をはじめて聞いたときには本当に違和感を覚えました。栄光ははじめから主のものでしょうに。お還しするものではありません。これもニッポンキリスト教の七不思議のひとつ。

軽く、軽く、身軽にシンプルに、淡々と、サラサラと生きたいと願う。生きるのにはそうたくさんの物は要らない。パウロが言うとおり、着る物と食べ物があればそれで十分。この点禅の坊さんなどはすごいものだ。何も持たずこの世に来て、何も持たずに帰っていく。ある禅の高僧は99歳で、「浮世狂言はやめじゃ」と宣言して食べなくなった。高齢では食べないと眠るように逝ってしまう。私はニッポンキリスト教の脂ぎったセンセイたちや、アメリカに洗脳されている原理主義者たちを見ていると、禅僧の淡白さ、サラサラ流れる生き方の方にはるかに惹かれるものである。正法眼蔵を著した天才道元などはその極致である。

あるいはブラザー・ローレンスのような主の前における隠遁的生き方。天の父は人に見えないところでなされたことに豊かに報いて下さる。多くの偉いセンセイたちはその報いを得損なっている。大衆が評価するものはたいてい嘘である。人から評価されない道をあえて選び続けたいものだ。