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バプテスマの意義

このところバプテスマを受ける人が連続した。ニッポンキリスト教ではしばしばバプテスマを受けるまでに長い研修期間があったり、信仰の品定めをされたりと、なかなか大変なことらしい。またクリスマスとかイースターとかに行なうのが多くの慣例であるらしい。

しかし聖書はどう言っているか。使徒行伝にピリポがエジプトの宦官に福音を伝えた場面にはこうある:

 8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たの
 で、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私
 がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるで
 しょうか。」
 8:38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中
 へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。

ピリポの時にはクリスマスもイースターもなかった!救いは「今」が勝負である。その人の内に真に信仰があるかないかは、私たちの霊で判断できる。研修期間を設けたり、身元調査をしなくとも、私たちの霊は相手の霊の真実を見抜くことができる。

ポイントは霊的実際があるか否か。バプテスマには大きく次の3つの霊的意義がある−@キリストの死と復活に包括される(ローマ6:3-4)、Aキリストの体の一部とされる(1コリント12:13)、B公の証し(1ペテロ3:21)。知識を積むことではなく、この実際に入ることが鍵である。

日本にはイエスを求める人は多いのだが、教会が敷居を高くして、人々を遠ざけているようである。