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首が回らない!

>>数日前ストレッチの際、前に痛めた右の僧帽筋に痛みを覚えた。「ヤバイ」と感じたが後の祭り。また痛めてしまった。こうなると右の首筋から肩甲骨の上辺りまで痛み、首が回らなくなる。いやはや、普段は自分の頭の重さなどは意識しないものだが、これが実に重い。特に寝返りを打つ時には、自分の頭を手で支えつつ、体を動かさないとならない始末。

>>普段意識されないものが意識される時はどこかに異常がある。私たちは普段は内臓の感覚は意識されていない。心臓は勝手に動き、胃腸は勝手に消化し、腎臓は勝手に尿をつくり・・・と。ヒポコンドリの患者さんはこれがすべて意識されるようになる。こうして自分の体に注意を集中し、かえって自律神経系の働きを損なう。

>>いのちの特質のひとつは自動性にある。いのちが自分を意識するとき、たいていはどこかがおかしい。WWJDと称してキリストっぽく生きる努力や聖化される努力をするクリスチャンはたいていこの自動性が損なわれており、いのちの法則に逆らった不自然さが見られる。

>>そのうちにある人々はクルシチャン(苦しちゃん)となるが、彼らは幸いである。むしろそれが自力で"できて"しまうクルシチャンは、なまじ"できて"いるがために自分の不自然さに気がつかず、かくしてしばしば偽善に陥る。ある牧師が礼拝を欠席した人に対して、「自分は40年間ただの一度も礼拝を欠席したことがない!」と豪語しておられたが、ここにあるものは肉の努力と臭さだけである。

>>できないことを知る人は幸いである。クリスチャンの歩みは難しいのではなく、元々不可能なのである。神は私たちに不可能なことを求めておられる。よって、自分にはできないことを知ることが実は真のキリストの力の発見と自由への第一歩である。このときすべてはいのちの御霊の法則により、自動的になされるようになる。自分がなしていることすら意識されない。当たり前が当たり前であり、私の意識と離れて無意識になされる、これが真の信仰の行為であり、そこには自己の何かを誇りたくなる要素は微塵もない。