* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
はColin Urquhartの「神から受けること」の同時通訳です。40年間のミニストリーを通じて、神と人々に絶えず自分を注ぎ出し、時にはもう何も注ぐものがないところまで追い詰められることもありました。が、自分の何かが尽きてしまう時、神の新しい霊的次元が開かれ、いのちのリフレッシュを得て、新鮮なアノインティング(油塗り)を得て、また前進することができるわけです。こうして私たちのキャパが広げられていきます。
昨今の、自己(Self)をすべての基準とし、自己を大切にし、自己の利益を求める、煌びやかないわゆる「繁栄神学」などが、特にアメリカで流行していますが、その風潮に対して警鐘を鳴らしています。私たちはすでにキリストにあってすべてを得ていますが、それを経験するためには、私たちが自分の十字架を取り、自分を否むことが必要です。自己に仕える人からみれば、立派なカルト思考となるでしょう。しかし主イエスご自身が
わたしに従いたい者は、自分の十字架を負って、自分を否みつつ、わたしに従ってきなさい
と言われるのです。問題は間違った十字架を負っていることです。信仰の究極はキリストを選ぶか、自己を選ぶかになります。バプテスマのヨハネが言うとおり、「私は小さくなり、あの方が大きくなる」こと。
今後、この世はいわずもがな、キリスト教会でも牧師たちが自己をすべてとする人々の肉を喜ばせ、人間を喜ばせるメッセージを語り、自己をすべてとするようになるでしょう。いや、すでにそうなりつつあります。かくして自分の何かや自己の達成を誇る自己栄光化の霊が広く蔓延することでしょう。
実際、私がニッポンキリスト教においてどうしても理解できないことがあります。それは「すべての栄光を主にお返しします」と言う台詞です。とてももっともらしく聞こえますが、ここには巧妙に自己が忍び込んでおり、自己の臭いがするのです。なぜ、「お返しする」のでしょう?自分が持っていたからでしょう?栄光は元より神のものです!
もうずっと前に書いてきていますが、今、クリスチャンがふるわれる時代に入っているのです。何を第一とするか、それぞれの心が明らかにされる時代です。
・自己愛の病理を脱する十字架の道
そうだねぇ・・・
日本のクリスチャンは自分を
低くして謙遜に見せるテクニシャンだからね!
栄光は元々主のもの、そのとおり。
いかに日本のキリスト教が見せる宗教に
成り下がってるかが分かる・・
自分で十字架を背負わなけりゃ,と言ってるのに
人に自分の考えた十字架を負わせようとする
教会、牧師、信徒、偉い人?のなんと多い事よ!