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用いられることの逆説

ある兄弟から伺った話:

ウォッチマン・二ーは若い頃野心に燃える一兄弟だったらしい。彼は生まれながらの天才的な頭脳を有しているし、もしその道を行っていたら世の学問においても大いなる成功と栄光を収めたことであろう。しかし若い頃からすべてを捨て、独立の働き人として召されて、貧困の中で結核を患った。

ボロをまとい、杖をついて歩いているある日、かつて自分に目をかけてくれていた恩師と出会った。恩師は「君はなんと言う惨めな姿になってしまったのかね。目をかけてあげていたのに」と一言放って去っていった。ニーは自分の状態を見て、惨めさと屈辱に打ちひしがれた。「確かに先生の言うとおりにしていたら、今頃は・・・」。しかしその時彼は栄光の霊が臨むのを感じた。その栄光と恍惚感の中で彼は確認した:「いや、自分はこの方にすべてを捧げるのだ・・・」。

このような彼であったが、なお野心を捨てていなかったようだ。それは立派な体系的神学書を著すこと。確かに彼の頭脳であれば、どれほどのものが書けたことであろう。ところが主は彼にそれを許さなかった。彼はこれから人生の収穫の時期となる50歳で共産党に幽閉され、70歳でボロ雑巾のように召された(→彼の証し)。20年間、主は彼が公の場で働くことを許さなかった。もし解放されたら、彼は英雄となり得たが、解放することも許さなかった。ニーは淡々とその召しに服した。彼が若い頃夢見たように、雄弁に福音を語り、数十冊に及ぶ神学全集を著し、大いなる神の業を行ったとしたらどうだろうか。相当の実が実ったはずだ。

しかし主はそのように は彼を用いなかった。主は彼に大いなるものを委ねたゆえに、そしてご自身の証を守るために、彼をして自分を無駄に注ぎ出させた。彼は主の魅力のゆえにそれに応じた。彼のこの20年を思うとき、「何ゆえに・・・」と感じると共に、ただ神を拝するのみ。私が信仰を持ち続けることができた/るのも、彼のこの20年の秘密を知りたいと願い続けているからかもしれない。

あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

Christian Fellowship Publishers(ニーの同労者だったStephen Kaungのミニストリー)

Commented by chieko 2007年03月31日(土)15:45

ニー兄弟がある日、福音を伝えていた時、一人の男が「キリストを信じれば、お金が儲かりますか?」と質問しました。ニー兄弟は「いや、あなた自身も取られるでしょう。」と答えたそうです。ニー兄弟は自分が伝えた福音通り、すべてを主に取られたのでしょう。
「主は取りしものに代え、ご自身与う」と詩歌にあるように、彼には永遠で無限な主ご自身が日々与えられていたのでしょう。主を賛美します。

Commented by 単なる一クリスチャン 2007年04月26日(木)23:30

1960年当時から中国には、国立教会(日本でいえば日本基督教団に相当する)なるものが存在していたそうです。その様なものがありながら、一個人に信仰を放棄すれば釈放してやる、などと政府が言うでしょうか?ニーの当時の教会論は、一の立場と称するいわば国規模の独特な包括論で、政治的危機感が政府側にあったのが幽閉の理由とされています。従って彼が殉教者といえるかどうかさえも私個人としては疑わしく思っています。そもそも私たちはキリストを崇拝するべきですか?それとも殉教者たちを崇拝するべきですか?天才的頭脳であれば、落ち度のない聖書解釈ができるのでしょうか?

Commented by Luke 2007年04月27日(金)09:17

これは興味深い見解ですね。私もニーのいわゆる一の立場には?な部分もあります。ウイットネス・リーがそれを排他的かつ独善的に推し進めたわけですが、そのタネをニーが撒いていたのか、あるいはリーが突っ走ったのか、分かりませんが。ただCFPのKaungらはそれは主張していません。

一方で中国のいわゆる公認教会(三自愛会でしたか)には問題がないのでしょうか。政府との関係で真理を妥協している部分などはいかがでしょう。少なくとも日本での基督教団には、その歴史的実行や現状を見ても、かなり???ですが。