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石打刑を骨抜きにするようなキリスト教はキリスト教ではない

と再建主義の富井氏が言っておられます。

つまり、新約時代において、律法は、「確立された律法」に変わったというのである。

つまり、旧約時代の律法は無視できるものに変わったという今日のクリスチャン一般が信じている教えとは逆に、聖書は、旧約時代の律法は確立され、バージョンアップした、と述べているのである。
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むしろ、「石打刑をバージョンアップすると何になるのか?」という疑問を呈するべきである。
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「あなたがたは○○と聞いています。しかし、私は言います。・・・しなさい。」
これは、バージョンアップである。新約時代の律法である。
「姦淫するな」というのは旧約聖書の律法である。しかし、イエス・キリストによれば、それは「情欲を持って女を見るものはすでに心の中において姦淫を犯した」という律法にバージョンアップしたのだ。
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ディスペンセーショナリズムは、恵みの時代の人々にとって律法はもはや無効である、という。
そうじゃない。むしろ、厳しくなったのだ!!!
それは発展し、確立された律法に変化した。

だから、石打刑についてもこのように考えるべきである。
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神のこのような戒めを実践するときに、我々は自分が思い描いていた神と、実際の神との違いに気づくだろう。
神は、義なるお方でもある。そして、その神の義は、犯罪者に石をぶつけて殺すことを要求するのである。
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それに気づいて聖書の神観念を受け入れられるならば、あなたは、真のクリスチャンである。
もし受け入れられないなら、あなたは偶像礼拝者である。
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もしあなたが、殺人犯に対して石をぶつけて殺すことができなければ、あなたの宗教とはキリスト教ではない。
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律法は、一点一画たりとも廃棄されていないのだ。律法は、むしろ確立され、不動のおきてとして心の板に刻まれているのだ。
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誰でも石打刑から何かの要素を取り除き、その律法をダウンサイズしたり、劣化させるならば、その人は偶像礼拝者である。
神の義は、故意の犯罪者を石で打つことによって処刑することを求める。

この律法は確立された。この義のおきては、バージョンアップされた。バージョンアップされたということは、「やさしくなった」ということを意味しない。

姦淫が実際的行為だけではなく、心の姦淫も含むというように厳格な方向に変化したように、石打刑も厳格な方向に発展した。

このような考え方をしないキリスト教とはキリスト教ではなく、ヒューマニズムである。

「ヴァージョンアップ」と言う言い方は私の影響でしょうか^^が、どうも通じていないわけです。ニッポンキリスト教界、実に、ほんとにイロイロです。

Commented by kenji 2007年02月16日(金)20:09

先ずは、富井さんから投げて頂きましょうよ。

Commented by 千葉のドクターK 2007年02月16日(金)20:12

私も彼のFAQはよく拝見していました。
以前の彼のメッセージはよく理解できました。
最近何かヘンです。
その何かが分からないからもどかしい。

Commented by サラ 2007年02月16日(金)20:54

主・イエスは誰かに石を投げたでしょうか。石打ちにしたでしょうか。主がなさらなかったことは、私たちには関係のないことです。イザヤ44−6.7・8が浮かんできます。

Commented by ジョナサン 2007年02月17日(土)00:24

もう、TOMIさんにあまり関わらないでください(´Д`;)。
TOMIさん、ごく一部の人にしか知られてないと思いますし。

Commented by Luke 2007年02月17日(土)08:37

ジョナサンさんはお友だちの方ですか?Dr.Kさんもご指摘のとおり、心配なのですね。「いつまで孤軍奮闘しなくてはならないのか!」とか叫びもありますし。迷路に入りつつあるような・・・。前にも書きましたが、私は彼のことを、その主張とは別にして、買っているからです。