* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
再建主義のBBSではまたもや「律法は廃棄されたか」の議論が再燃しているようですね。例によって富井氏はこう言われます:
ガラテヤやヘブルなどで、パウロが「律法は廃棄された」というような表現があるのは、動物犠牲などの「影」がキリストという「本体」に変わったということを表現したものです。・・・
旧約時代に特定民族(ユダヤ)に与えられた律法は、新約時代に全民族に与えられたのです。・・・
それゆえ、民族的な戒めは、超民族的な戒めに代わりました。・・・
律法の一点一画たりとも廃棄されておらず、それゆえ、律法を研究して、それらを我々現代の日本社会に適用することが必要です。
つまり律法の本体であるキリストが来られて律法を成就され、その律法は超民族的にされたと言うわけです。つまり適用範囲を広げたわけで、これがメルキゼデク系祭司制度の律法であると。・・・かすっているのですね。 なぜなら すなわち さらにすぐれた希望とは何でしょうか。 と言う主イエスのことばが沁みるわけです。 行ってらっしゃいませ。
キリストは律法の本体、そのとおりです。キリストは律法を廃棄するために来たのではなく、むしろ成就された。そのとおりです。そのキリストが今私たちの内に住まわれ、私たちのいのちとなって生きてくださる。だから石の律法は不要になったのです!私たちの内に働くいのちの御霊の法則を信仰によって生きるとき、私たちは石の律法の基準も自動的に満たすのです。だからそれでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。
肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
一方では、以前の掟が、その弱く無益なために廃止されました。律法は何事も全うしなかったのです。他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。
神学論争の本質は、実はきわめて心理学的なもの。認知と認識のフレームの違いなのですね。一度色眼鏡をかけてしまうと、そのフィルターを通してしか見る事ができなくなります。しかも神学者は立派な方が多いのでしょうが、残念ながらその人間の認識の限界を知らない。それゆえに<カルヴァンvsアルミニウス>と言ったナンセンスな議論に落ちて、互いに異端だカルトだとレッテルを貼るわけです。この世界、実にご苦労様なことです。こう言う時には野の花を見よ、空の鳥を見よ
で、今晩はクリスチャン・トゥデイと山谷少佐の会見の証人として出て参ります。私も2,3突っ込んでみようと思っていますが。
お祈りしております。