* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
何かを批判する場合、相手をよく理解すべきことは重要です。相手が言ってもいないことを批判したり、言っていることを言っていないかのように喧伝するならば、批判する側の資質が問われます。
そこで今回はローカルチャーチの神学雑誌(?)"Affirmation and Clitique"誌の記事を紹介しましょう。日本語では『肯定と否定』となっているようですが。今回の大論文は、人が神になる根拠を実に明快に論じてあります(苦笑)。まあ、再建主義との議論でも指摘しましたが、神学なる高級な学問の空転的言葉遊びに付き合うのも時にはいいでしょう。立っている基礎が砂なのに、その上に「カルヴァン神学」だの、「再建主義神学」だの、はたまた「回復神学」だのが建てられる様はかなり壮観です。
結局その世界に飲み込まれているのですね。だから自分を客観視できない。そこに批判を加えられると青筋を立てて、名誉毀損で訴えるぞ!となるわけです。さてさて、この「混ざり合い」のトリックお分かりになるでしょうか?われわれ自然科学の訓練を受けている者にはそもそも論じること自体がナンセンスなのですが・・・。自分が何をどう信じているか、十分に省みましょう。時には他人のありがたい言葉にも耳を傾けつつね^^
・Mingling(混ざり合い)-これに勝る適語があろうか,Affirmation & Clitique, Vol.1, No.3 July 1996
注:本文は私の訳出ですので、日本福音書房の記事とは訳語などが異なります。
大変興味深く拝読しました。特に−
聖書においてキリストの人格と信者のうちにおいて神性と人性が混ざり合っていることを見ることができるので、私達は混ざり合いを宣言するのである。
と言う一句は見事であります。「混ざり合い」を宣言するのは「混ざり合いが見えるから」・・・?
この論で言えば、聖書にはサタンの言葉も記録されているから、聖書は神の言葉とは言えないと宣言するようなものでしょうか?
言葉のトリックは、その言葉の世界に相手を撒き込んでしまえば良いのです。これはキャッチセールスなどの名人が実に巧みです。寅さんなんかもね。同じ土俵に乗せられたら、後は自分のペースになります。カルヴァンvsアルミウスなどもその議論に入ったら空理空転だけです。認識論の限界からその議論自体がナンセンスですから、私たちは一切そういった神学の土俵には乗りません。
信仰の歩みをするのに、カルケドン信条でとどめておいて、何の問題もないのですけどね。私たち的には何ゆえ"mingling"にこだわるのか、その「こだわり」の精神病理に関心があるわけですが。