* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
本日も英国Colin Urquhartのメッセージの同時通訳です。時期としてまさにフィットする内容です。テーマは神の栄光に与ること。地的イスラエルと天的イスラエル(=エクレシア)の関係を再確認しており、神のエコノミーの鍵はいのちにあることを確証しております。このいのちの次元の理解と経験がないと、あのややこしい不毛な神学論争に落ちるわけです。
私たちの召しは失っていた神の栄光に与ること。私たちの務めはこのいのちを流し出すこと。ガリラヤ湖のように水が流れ込み、それが流れ出ること。この霊的いのちのフローが滞ると死海と化します。かくしてクリスチャンが煮詰まってしまい、死海のように硫黄の悪臭を放ちます。腐ったクリスチャンは不信仰の者たちより扱い難くなります。塩気を失った者は人に踏みつけにされ、しかも自分がいかなる状態にあるかも分からなくなり、ただ悪臭を放ちます。かくして死海のように自分の中での堂々巡りで妄想と欲求不満だけを膨らませるわけです。
健全ないのちを保つ鍵は自分を脇へ置いて流し出すこと。受けるより、与える方が幸いだ、と主は言われます。そのためにはキリストと共なる死の適用が必要です。
こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。
* * * 実際、今日、キリスト教界の闇は深いのです。 やっぱ人格障害って直んないのでしょうかねえ。 まあ、どうでもいいや。 いえいえ、変わらない人、あるいは成長しない人は病識の欠如した人です。病識のある人は主の霊と御言葉に浸ることで成長します。人格障害はいわゆる治療することが困難であり、精神科医も労力を使うので嫌いますが、イエス様は来る者を拒みませんから^^ 今日キリストの所ではなく俺が直してみせるから俺のところに来い、というクリスチャンセラピストがいるので困るんですよね〜。 そうですか、植木等的な「セラビスト」が多いのですね(古いな〜)。こういった場合、「治った」と称する人たちがどうなるかと言うと、例えば対人恐怖の人のケースで言えば、電車の中で突如演説を始めたりするわけです。対人恐怖を克服したから!?クリスチャンもね、職場のオフィスでいきなり「悔い改めよ〜!」とかやっちゃう人ととかね。イエス様不在の「福音」と言うわけ。
ある方との会話:あたしはイエス様の声を聞いたからやっているんです!Lukeさんはなんでそれを止めるんですか!それに何で断食なんかするんですか!私は霊でLukeさんが何しているか分かるんですから!!!私:「はあ〜?」(ダイエットはしても断食はしてないのだが・・・汗)
あれ、ここ精神科の入院病棟だったけか・・・。しかし今日ニッポンキリスト教においてもこの手の「声」を聞く人が多いのです。これも自己の中で本人の肉的願望が堂々巡りして、「声」として反響するわけです。このような場合、周囲と必ず摩擦を引き起こします。しかも本人はその「声」を神の声であると信じ込む、というよりは思い込んでいるわけです。彼らの「確信」を覆すことはまず不可能です。かえって彼らから見るとその「声」を認めない私はキリストに対する反逆者となるわけですね。
実に病識を欠いている人は、お釈迦様ではないですが、度し難し(扱いに困る)。大体は分裂病まではいかなくても、分裂病型乃至分裂病質人格障害あるいは妄想性のそれでしょう。問題はこの手の人がかえって「霊的」に見えてしまうわけで、「主は・・・と言われます」式の自称預言者などが蔓延っているわけです。あなたがたは聞く事柄によくよく注意しなさい。
扱いに困る、困ったチャン。
私も結構 ひとのこといえないのでは、人格障害 はいってるカモ。
どうしたらいいんだろう。
そこんところは、あきらめて
それに並行して
御言葉に従うってことを続けるべきなんでしょうか?
とりあえず、御言葉に従います。よろしく