* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
精神分析療法は、それが可能な限り禁欲のうちに行わなければならない。つまり、患者が(治療の中でみたされない願望や欲望を治療者以外の人物との間でみたそうとする)行動化を起こしそうになったり、治療者との間で、甘えたい、愛されたいという転移性の要求を満たしてほしいと執拗にせがんでも、それを許容してはならないというのが禁欲原則である。
もし分析者が患者を助けてやりたいと言う気持ちでいっぱいなために、およそ人間が他人から期待することのできるすべての満足を患者に許し与えてしまうとすれば、患者はそれを快適に感じてしまって、人生の困難から抜け出して、好んでそこに避難所を求めると言う結果にしかならない。これでは患者を人生に対してもっと強健に、彼ら自身に課せられた課題に対して、もっと行動力を豊かにしてあげるという治療的な努力を放棄することになる。・・・分析療法では、この甘やかしは一切避けねばならない。分析医は患者に、満たされない願いを十分に残していなければならない。
どうでしょう。愛がないと言われるDr.Lukeの自己弁護の根拠です。現在のニッポンキリスト教のベタベタした気持ちの悪さ、ビョウキの人々が跋扈している現状に対するもっとも必要な警鐘です。しかし献金で食っている牧師にとっては大変なことでしょうね。
Commented by イザヤ・ベン・ハー 2006年09月25日(月)21:36Lukeさんも病んだ人々を相手にけっこう苦労されているのですね。ご同情申し上げます。
Commented by Luke 2006年09月25日(月)22:55まあ、何の因果でしょうか・・・。お人よしでもないのですが。小生は他人の面倒など見るのはまっぴらなのですね。自立して自己責任でやってくれよと、いつも思っておる次第で・・・。だからニッポンキリスト教の立派な「牧師」にはとうていなれないわけでして(笑)
Commented by ジョナサン 2006年09月26日(火)02:54>>献金で食っている牧師にとっては大変なことでしょうね。
まあまぁ(;´Д`)。いつものLuke節、おっしゃりたいことは分かりますが、牧師の役回りは教派的伝統によって、かな〜り違いますから。
Lukeさんの一刀両断は、大抵の場合は小気味良いのですが、"「牧師」は"云々という大雑把なな括り方は、ほとんどの場合、救世軍のMak少佐なども含んでしまっていうることが気になっています(私は救世軍ではありませんが)。
Lukさんが「牧師さん」と言われる場合、とくに"いわゆる"福音派のある系統の先生方が念頭にあるわけですから(あえて断定的に言いますが)、もう少し限定的な表現はないものでしょうか?
あっ、Lukeさんも「牧師」でしたね! と言ってみるテスト。
「福音派のある系統」ですか・・・。必ずしもそうでもないのですけどね。私が最も言いたいことは、キリスト教で救われるのではなく、キリストによって救われることなんですが。この辺りは宮内氏の証しによって明らかです。キリスト教と言う時間と空間の中に確立しているシステムが、キリストにとっての最大の障害であると感じているわけです。その筆頭が「牧師制度」なわけです。
Commented by 宮内 学 2006年09月26日(火)15:43「キリスト教と言う時間と空間の中に確立しているシステムが、キリストにとって最大の障害である」
Lukeさんの上記の言葉に同感致します。
私はキリスト教の門外漢でありますが、人はより高い権威に忠実になろうとした時、それより下位の権威に否定的になるものです。キリスト者がもしキリストに従うべき者であるならば、Lukeさんの見解は聖書的であると思います。