* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
下のモラトリアム領域についてご質問を受けました。「もし神の御旨に反した意志の用い方をしたらどうなるのかこわい」と言われるのですね。大変すばらしい感受性です。
もちろんその決断の実を自分で刈ることになるでしょう。例えばあえて姦淫に落ちるならば、AIDSなどのSTDに罹ることもあるでしょうし、幸いな結婚生活を破壊することでしょう。この意味で
神はあなどられる方ではない。人は皆自分の撒いたものを刈り取ることになる
とあるとおりです。 とあるとおりです。が、パウロは と問題提起し、自ら回答を与えています。 鍵はキリストと共なる死にとどまることです! とあるとおりです。鍵は とあるとおりです。鍵は 神は宇宙の全権を有していますから、私たちの不実すらその上に主権を行使できるのです。ハレルヤ!
しかし不従順の罪のためにイエスの血が流されています。悔い改めによる赦しの道がつねに開かれているのです。何度でも十字架に立ち返ることです。律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。
では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
しかも私たちの不従順あるいは不真実ですら神の真実を無にしません。むしろ神はそれを摂理によって用いて、ご自身のご計画を推進されるのです。かくしてまたもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて、神の栄光となるのであれば、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
石、なぜ、わたしはなおも罪人として裁かれねばならないのでしょう。
人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、/裁きを受けるとき、勝利を得られる」と書いてあるとおりです。