* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
自身のBlogにて疑惑記事を提示していた救世軍山谷少佐に対して、Blogからそれらの記事を一切削除せよ、しない場合は法的措置も辞さないとするクリスチョン・トゥデイ高柳泉社長は、その後東京地裁に本提訴するかと思いきや、どうも腰砕けの様相となりました。少佐のBlog上にはいぜんとして諸記事がそのまま掲載されており、少佐は勝利宣言を出しております。これの一連の動きを見れば、クリスチョン・トゥデイと、このようなメディアを利用する業界の面々の本質が理解できることでしょう。これがニッポンキリスト教の悲しき現状なのです。
その山谷少佐が興味深い記事を書いています。現在のキリスト教界の諸問題の本質がどこにあるのか、彼は最後にこうまとめています:
それはおそらく、あのベツレヘムの馬小屋の飼葉桶の中で幼子となりたもうた、主イエスキリストのそばに居続けることである。永遠の絶対者として全知全能の力を振るっておられたお方が、小さく無力な赤ん坊となって、わらの上に無防備な裸の姿で眠られた。主は力を手放されたのである。主が力を手放されたという意味で、すでにベツレヘムの飼葉桶は、ゴルゴダの十字架でもあった。
力を行使する者は、飼葉桶のそばにいるならば、いつでも、主イエスキリストが再臨される前であっても、力を手放すことに、躊躇は無い。それはつまり、力を行使する者が、十字架につけられているのならば、いつでも、躊躇無く、力を手放すことができる、ということである。
「力を手放す霊性」というものがあるとすれば、それこそが、「世の中にいる」教団を「世のものでないもの」となし得る聖霊の息吹であろう。
このような霊性が実践されるところにあっては、教団の最高指導者が一枚の転任通知を受け取って、鞄ひとつで田舎の無牧の教会に赴任することが、普通の光景として、見られ得るはずである。そうしてまた、メガチャーチの牧師が、プール付きの高級アパートとベンツを手放して、パプアニューギニアの宣教師として身ひとつで赴く、ということが、普通の光景として、見られ得るはずである。
それほどまでしたとしても、我らの主が飼葉桶の中へとへりくだりたもうた、あの謙遜とは、比べるすべはないのだが。
そうして、「そのような光景」が見られない、というところに、ゲマインデ(教団)とガイスト(この世の諸霊)との関係の「現在」を見るのである。
キーワードは「力を放すこと・無力になること」。現在、人の目に煌びやかに見えるパワー信仰が蔓延しているニッポンキリスト教界でありますが、前々から私も指摘するとおり、パワーを捨てられるかどうか、そこにこの業界の命運がかかります。もしニッポンキリスト教界がまことに神のあわれみといつくしみに与るのでしたら、このことが起きるでしょう。それは人の目にはすべてが費える瞬間と思えるかも知れません。が、そこを通らない煌びやかな教界が実現したとすれば、それは神に放置されたことの証明であるのです。この観点から現在、そして今後の教界を診断する時、はたして何が見えてくることでしょう?
とりあえず山谷さん、お疲れ様でした。しばらくゆっくりとお休みください^^
(それにしても山谷少佐を精神異常者とか、妄想病患者とか、サイバーテロリストと揶揄する輩が、もし彼らが"クリスチャン"であって、それらを本気で言っているとすれば、まことにこの業界、倒錯しているとしか言いようがないことであろう。)
2ちゃんねるで懸命に遠吠えしていた「彼ら」ですが、やっと敗北を認めて大人しくなりつつあるようです。Dr.Lukeも高柳タソの恫喝訪問に遭われたり、例の会談に出席されたりされたりしたのですよね。
この度は本当にお疲れ様でした。
おはようございます。本日もラジオ体操で燃えてきました^^
まあ、提訴はできないと前からここでも言ってきましたが、こうした恫喝で人の口を塞ごうとする魂胆がさもしいわけです。しかし「彼ら」も根は純粋なんでしょうね。それでかえって盲目となっています。「メタ」の視点を持てるように成長して欲しいと感じています。
なお、高柳氏の名誉のために言っておきますと、彼からは会談を高圧的に要求されたり、自宅に電話攻勢をかけられたりしましたが、実際に訪問してきたのは別の団体の牧師です。
山谷さんは実に素晴らしい仲間をお持ちですね。今回の件は今後のニッポンキリスト教の状況をプロフェティクに露にしたと感じています。
23さまもしばしご静養のほどを・・・。