* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
聖霊派の霊の戦いをやっている人たちから「Dr.Lukeは悪霊に憑かれている、主の名によって、悪霊よ、出ろ〜!」とやられてしまいそうですが。軽薄なんですね、ニッポンキリスト教は。
それに対して禅と禅文化の深さと静寂さと緊迫感は大好きなのです。学生時代夏休みになると軽井沢の友人(彼とは30年近くの付き合いで、彼も禅の老師のように世間離れしてますけど^^)と出光美術館(今はないようです)に仙涯和尚の禅書墨蹟を観に行ったものです。森閑とした中で書を眺めていると、時間と空間を越えて禅の心―こだわらない流れる心―に触れることができた。加えて同館では落雁に抹茶を振舞ってくれるのですね。甘い落雁と渋いお茶。このハーモニーが実に絶妙。暑さの中での熱い一服(と言ってもぬるいが・・・)。また静岡臨済寺の当時の倉内正堂師にもお世話になったりしたもの。夏にはこの寺はセミの声で包まれる。「脚下省顧」の張り紙が新鮮だった。あのキョウサクでピッシと打たれるとなんとも言えない爽快感が満ちた。
禅は鎌倉時代に特に文化として日本に浸透したが、剣、茶、花、舞など、すべてに浸透している。こちらの禅寺の佇まいなどは実に心惹かれる。対してキリスト教のいわゆる教会や寺院などは不気味であまり・・・ですね。多分に今のキリスト教では、禅の影響が深く浸透している日本人の心の琴線にはほとんど触れることがないでしょう。キリストご自身から相当に乖離しているからだ(参考:山田無文師のことば)。私の知っているキリストは、十分にこのような風情や風流を理解する方と私は勝手に感じているのですが。事実鈴木大拙も「イエスは覚者じゃ、しかしわしは聖霊が何かは分からん」と言っているくらいです。イエスご自身には大拙をうならせた魅力があるのです。
・禅文化研究所
・臨黄ネット
次の無文師の言葉などは、感性的自己を肉と、霊性的自己をキリストに置き換えれば、そのまま聖書の真理になります。
http://www.zenbunka.or.jp/03_magazine/mumon/012.htm