* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
私がある意味でウンザリしていることは、「クリスチャンとして私は何をすればよいですか。自分は何をすべきか祈ってもよく分からないのです」と言う問いである。私は率直に言って、こう思っている:「私はあなたの主ではないから、私に分かるわけないでしょう」。
きょうemiさんのBlogを拝見したら、ホッとすることが書かれてあった。実にうれしくなりますね。「神の御旨を行うために、私たちは何をすればよいですか」と尋ねる弟子たちに、主は「神が遣わされた者を信じることだ」と答えられました。
「私は何をすべきですか?」との問いには実は自己が隠されている。自己を受け入れ、自己を認めてもらいたいと言う動機が巧妙に隠れている。自己から解かれることをメッセージすると、「どうしたら私は自己から解かれるのでしょうか」と尋ねられ、そろそろめげて来ていたので、ほんと励まされます:
−源へ−
何かのメッセージがあった時、私たちの反応として、「では、私は何をすればよいのか。」という問いは、ある意味、見当違いなのでは、と思う。間違いではないとしても、かなり遠回りであり、ともすると、そこからでは目的地へは着かないかもしれない。
そのメッセージの源である方を知り、愛し、その思いを知りたい、似た者になりたい、という方向に導かれない限り、すべては応用不可能なバラバラな事柄であり、そこからどんな実が得られるのだろう。
(中略)
御言葉を読むとき、その中に自分のなすべきことを探す以上に、書かれたお方を探したいと思う。