* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
老子でしたか、荘子でしたか、「自分を知り、敵を知れば、百戦危からず」と言ったのは。私たちサイエンティストはつねに自分の認識し得る能力と射程を意識しながら、物事に当たるのですね。
「学」とは、「何か」を客観的に対象化して説明することなのですが、実は物理の最前線では、この客観化がなし得ないわけです。すでに主観と客観の線引きができない領域に立ち至っているわけです。ここで前に述べたような、カオス理論や、量子力学における観測の限界を与える不完全性原理や、論理自体の限界を与えるゲーデルの不完全性公理などが発見されているわけです。
ところが神学では、すべての創造主なる神を客観化して説明しようとする!?われわれからすると何と大胆と言うか、無理なことをするものぞ、と感じるわけです。もっと言えば、ドン・キホーテ。時空間を超え、われわれの知性のフレームを超えている存在を、われわれの認識の中に収めようとしている。
神学の最も根源的な問題はですね、人間を知らないこと、なのです。デジカメで画素数がいくらかを知ることは、デジカメがリアリティをどれだけ正確に写し取ることができるか、つまりその性能を決定する最も本質的な要素でしょう?ちなみに私たちの視覚だって、すでに相当に騙されているわけ。だからマリックさんやセロさんたちが商売できるわけです。
自分を省みることができない人、自分を知らない人は、病んでいる人です。人から批判を受ける時、私は「ああ、この人の心にはこう写っているのだな」と見るわけです。つまりその人の心の平面が平面ではなく、相当に歪んでいるわけ。で、このような心から生まれる「学」ははたしてどのようなものになることでしょう。神学オツムの方々にはぜひその辺を再考していただきたいと感じている次第です。
(ちょっと話が逸れますが)「自分を知ること」の重要性必要性を、私も痛感しております。自己評価がある程度できているならば、結果的に自分と他者の良心を守ることができるのではないかと思います。(もちろん主にあってですが)
また、自己評価ができるようになると、同時に他人に対しても「この人はどういう人なのか」を深く考えられるようになるのではないかと思っています。
ルークさんは、一貫して「自己の魂を否む(自己の十字架を背負う)」ことを伝えておられます。評価ができるということは、視点を多く持っているということだと思います。自分を降ろしているかどうかということは、人を鋭く見抜く視点であり真理だと思います。
ただ・・・自分を知る時っていうのは、大失敗したり大恥をかいたりする時が多くないですか?(^^;)
>自分を知る時っていうのは、大失敗したり大恥をかいたりする時が多くないですか?(^^;)
おっしゃるとおりですね。私たちは自分の気になる何かには敏感でも、自分の本質的な部分については、ある意味できわめて鈍感ですから。
ご指摘をいただきました。これは孫子の言葉ですね。ありがとうございました。