* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
今のキリスト教界を見ていると、自分の必要の満たしのための礼拝、教会生活、学び、奉仕ばかりである。救世軍の山谷氏が指摘されていたが、米国のメガチャーチの成功の鍵は、あらゆる必要の満たしの設備とスタッフをそろえて置くことだ。
ここにあるのはまず神を拝する事ではなく、自分の問題解決や必要の満たしを得るために神を拝すること。つまり神を手段としている。すべての判断が「自分にとって」に基づいている。自分にとってやさしく、自分にとって益になり、自分にとって満足を与える者がGOOD。
これは特に心を病んでいる人たちに言えることであるが、彼らは自己の確立が不明確であるために、絶えず自分を受け入れ、自分を認め、自分を評価してくれる存在を求めている。この期待にこちらが沿っている間は、「Dr.Lukeは素晴らしい!」なのだが、いったんその期待をはずすならばエライことになる。お分かりになります?すべての基点が自分にあるわけ。
かくして教会ジプシーがあちこちをさまよい、様々の噂を流しつつ、このギョウカイを混乱させていく。本人自身も真の満足を得ることができないので、フラストレーションをさらに発散しつつ、悪循環に陥る。
真の満足や真の喜びは自己を離れる時に味わえる。礼拝を自己実現の手段とすることがないように。礼拝はただキリストにあって、キリストのため、キリストの満足のためのもの。自分にとってどうか―このような幼児性から一歩踏み出す必要がある。
しかしセルフ・オブセッション(自己がすべて)の今日このようなメッセージはあまり好かれないだろう。現代に主が地上におられたら、多分言われるであろう:「今人気がない者は幸いである。天において神の心を勝ち取るからだ。」
ホリエモンばかりでなく、私たちもすべてをゼロクリアして初めの一歩を踏み出す必要があるようだ。
すべての礼拝は究極的に神とその御子の主権の認識である。それは敬虔な服従を持って生きるために御座の前に出て行き、また敬虔な服従の生活をするためにそこから出て行くという認識である。Colin Urquhart
これって、セルフ・オブセッションの全く逆ですね。
セルフ・オプセッションを抜けつつある私にとって、この間のメッセージは何ともいえない腹の奥からのうめきを感じました(なんと表現していいかわからない)。1歩、踏み出さなくてはいけない何かを感じました。
Commented by kg 2006年01月28日(土)17:13「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれがまず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」。(ローマ11:33〜36)
私たちキリストのものが、ますますキリスト様だけを求め、心から自分を主に明け渡して、主に従っていけますように。ただ主だけがあがめられますように。