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ニッポンキリスト教聖化について
投稿日 : 2005/11/29 21:02
投稿者 赤子
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Luke先生
いつも読ませていただき、学ばさせていただき感謝しております。「ニッポンキリスト教聖化」などは、苦悩を生むだけです。というところをもう少し詳しく教えていただけないでしょうか。お願い申し上げます。
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Re: ニッポンキリスト教聖化について
投稿日 : 2005/12/14 08:26
投稿者 Luke
参照先
素晴らしい証しを感謝です。私はウエスレーは一冊も読んでいませんで、勝手なことを申し上げた部分があろうと思います。お読みの方はDr.Lukeの無知を御赦し下さい。

ただ、神学は言葉遊びに堕する傾向が強く、人間の実質を知らないで空論的体系を作ろうとする傾向があるようです。われわれ(サイエンティスト)からすると、方法論、論理、そしてモラル(実証なくして論争だけ、それも大声出した者が勝ち的な)があまり高くないと思えるのです。

聖書には「主は私たちの成り立ちを知り、私たちがチリにすぎないことを心に留めてくださる」とあり、「私たちの日がまだ1日もなかった時、私たちの人生は主によって書き留められた」とある御言葉に、私は大いなる慰めと励ましを受けるのです。しかも私たちの神はその人間性を自ら経験してくださった神です!(受肉の奥義)

聖書は「霊精神身体医学書」です。製造者(神)による製品(人間)の取扱説明書です。それを人間の限られた知性で勝手に読むのであれば、それは狂気を生みます。人であることをただ主に感謝すること。明け渡すこと。へりくだること。私たちにできるのはそれだけです。パウロは言っています:

何かを知っていると思う者は知るべきほどのことも知らない。

・人間の聖書的啓示と現代精神科学
http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Ron/human.html


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Re: ニッポンキリスト教聖化について
投稿日 : 2005/12/14 06:43
投稿者 赤子
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赤子の書いた内容を読まれた方へ。
私は、ジョン・ウエスレーを尊敬しています。救いについて、義認について、信仰について、愛について等、何か文句をつけるということはまったくありません。キリスト者としてのウエスレーの歩みについては感服するばかりです。ウエスレーご自身の愛の動機に基づく類まれなる伝道活動についても、これほどまでに伝道した人は他に何人いるだろうか、と思います。本当に言葉では簡単には言い表せないほどすばらしい信仰生活を送られた方です。
 ただ、私が問題にしたのは、<人間の内にある罪の根絶>、という一点のみです。それで、苦しんでしまうクリスチャンもいる、ということのみについてです。それ以外のことで私がウエスレーに関することで問題にしていることは何もありません。
 うえすれーの黙示録の解釈は・・・・ということもありますが、ダニエル書にあるように終わりの時にならないと終末予言は正しくは理解できない、とありますから黙示録の講解については、黙します。
カルバン派とアルミニアン派についても、私は、選びの教理について、以前数年間は、真剣に考えていましたが、行き着いたところは、神は創造者であり人間は被造物である、ということです。振り返ってみれば、パウロがローマ人への手紙で書いてありましたね。神様が、すべての人が救われて真理を知るようになるのを望んでおられる、といわれるならば、そのことはその通りであり、エレミヤの選びのように、生まれる前から預言者として神様がエレミヤを選んでいた、とあれば、神様は、そのようになさる場合もあるのだな、と思います。普通一般的には、Luke先生が13日のブログに物語風に書かれたとおりだと思っています。神様は、人間に自由意志を与えられましたし、福音が提供されたときに、信じる人を全能全知の神様は、世の基のおかれる前から、知っておられた、ということについて何の不思議もありません。その信じる方々を選んでおられた、としても十分に頷くことが出来ます。私は、今ではこれらのことについても、全知全能にして愛と恵みに満ちた創造者であられる神様のお考えなさることについては、とやかく言う必要もないな、と思っています。私は、ゴキブリとして創造されたり、アリとして創造されたのではなく、人間として創造されました。もっともアリやゴキブリが不幸せかというとそうとはいえないかもしれませんが。私は、人間以外になったことが無いので解りません。ただ、神様といつも共にいることが出来、主の恵みのうちを歩ませていただいているだけで感謝です。
 グダグダ書いてしまいましたが、真意だけ読み取ってください。ありがとうございました。
 
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Re: ニッポンキリスト教聖化について
投稿日 : 2005/12/13 20:09
投稿者 Luke
参照先
>時系列の中で、ウエスレーが言っている全ききよめの状態の継続は、内面までよくよく見れば、結局は栄化のときまでは与えられないのではないかと思いますが、いかがでしょうか?

と思いますよ。何しろ心と旧い身体の一部である大脳の働きはシンクロしていますし、大脳が贖われていませんからね。現経綸では不完全にしか現れません。山谷さんの言われる中間時代ですね。

1コリント13:12−今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

これには私たちの状態も含まれるでしょう。

だから

ローマ8:22-23−私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

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Re: ニッポンキリスト教聖化について
投稿日 : 2005/12/13 18:13
投稿者 赤子
参照先
今日13日のDr.Lukeさんの書かれたブログは、極めて短く単純なものですけれどもアルミニウス派とカルバン派、ウエスレーの著作に対する解答として、十分なものだと思います(^_^)。今の私は、単純にみことばを信じて信仰生活を送っているものですけれども、初めは、まず、進化論が正しくないという証明を自分なりにしなければなりませんでした。26年前の話ですが、その頃を思い返すと半年かかって、やっと、決着がつき創世記1章1節を受け入れることができました。次は、聖書は本当に真理の書であるのかどうか、ということを自分なりに頷くことができなくては、聖書を信じてよいのかどうか問題であったのです。そこで今度は予言の研究と聖書の確かさを、また、聖書を読むときの基礎としてカルビン系、そしてアルミニアン・ウエスレアン系の神学書等を読むこと10年ぐらい、しかし、今日の先生の2編の短い文章でそれぞれの問題となっていることを誰にもわかるようにみことばを引用して、また、ひとつの物語を用いて見事に解決されたことは驚嘆に値します。すばらしいです。ありがとうございました。知識から信仰に入っていくという筋道で歩んできたものたちへのすばらしいプレゼントです。聖化論も色々読みましたが、皆同じようなものです。時系列の中で、ウエスレーが言っている全ききよめの状態の継続は、内面までよくよく見れば、結局は栄化のときまでは与えられないのではないかと思いますが、いかがでしょうか?(黙示録19:8)より。
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Re: ウエスレーの言う罪と聖化
投稿日 : 2005/11/29 21:10
投稿者 Luke
参照先
Blogにも紹介しましたが、カルバンvsアルミニウスについて、私の立場は次のチャック・スミスの立場が一番ピンと来るかなと感じています。
http://homepage1.nifty.com/fountain-of-life/info_j01.htm

神学用語(定義が人によってバラバラ)を使わずに、御言葉のみで語り合う必要性を感じてます。

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Re: ウエスレーの言う罪と聖化
投稿日 : 2005/11/29 21:09
投稿者 赤子
参照先
野呂氏の今回の書籍は、野呂氏ご自身によるウェスレー解釈の本である。とのことでありますので、ウエスレーの主張に対しては、ウエスレー日記(確か2000ページ位のものだったと思いますが、読んだ後でこの本を知り合いの牧師にプレゼントしてしまったので、今手元にありませんから紐解けませんが、そこにはウエスレーを知るための必要なことがかかれてあります。また、ウエスレーの神学を考えるときには、直接、「キリスト者の完全」と標準説教集(120テーマ)を読んだほうが、野呂氏の本を読むよりも本当のことがわかると思います。ウエスレーは、主にあってそれはそれは大きな働きをした方だと思います。
私の言っていることに属することは、聖書研究にたとえると、低等批評(あるいは本文批評)に当たるとおもいますが・・・。野呂氏が今回出された本は、さまざまな立場のウエスレー研究者達による研究成果との対話によって、野呂氏自身によるウエスレー解釈が展開されているということのようですので、学者さんたちは、これのほうが聖書研究にたとえるならば高等批評に当たる、といわれますが、まずはウエスレー自身の著作を読まないと野呂氏によるウエスレー解釈で終わってしまうことになると思います。一番薄くて簡単に読める書籍は、キリスト者の完全という本です。そこには、「根絶」という言葉が出てきます。
一例を挙げると、「・・・・・・メソジスト信者・・・は、心のきよき者であるからである。愛は、彼の心を嫉妬、悪意、怒り、すべての不親切な気質からきよめたのである。愛が争いを生ずる傲慢から彼をきよめたので、彼はいまや慈悲の心、なさけ、謙遜、柔和、寛容を着るようになった。こうして真に彼の側における争いの基となるところのものは、すべて根絶されたのである。」とあります。
私にとっては、ウエスレーはあまりにも偉大で足元にも及ばない、というよりも遠くはなれて立って眺めているというぐらいの差を感じる人ですけれども、「根絶」「気質がきよめられる」・・・まだほかにもありますが、気になるところがあるのです。
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補足
投稿日 : 2005/11/29 21:08
投稿者 TedPeter
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> (2)・・・管理面(被造物の管理関連)

●管理面でなく、「政治」面です。

●また、(1)から(6)は野呂氏の本から、(7)は坂本氏のHPの記述からの、自分なりのまとめですが、自信がなく責任を取りません(「ウェスレー歴2週間」)。必要とあらば、ぜひ原典にお当たりください。

※これの元原稿を貼る場所を多少間違えたかもしれません。修正できません。ごめんなさい。
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ウェスレーのいう罪と聖化
投稿日 : 2005/11/29 21:07
投稿者 TedPeter
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> >「全ききよめ」の後に罪に属する思いが、心の中に現れたら、それは、サタンあるいはその配下のものが心に入れ込んだ、あるいはそのように思わせた、ということになると考えたわけです。
>
> ウエスレアンでは「全ききよめ(私は罪(Sin)の除去と理解していますが)」が、今の体(現経綸)で可能であると考えるわけですか!?これではクルシチャン大量生産でしょうね。
>

ウェスレーについて:ちょっと誤解かもしれません。
私は2週間前に彼を「発見」したのですが、大変な巨人だと感じます。
以下は私の読書メモで恐縮ですが、興味深いのではないかと思います。
ご参考までに。(「歴2週間」:間違いがあればご指摘ください。)

(注1)信仰は喜びと真の自由が伴わなければ偽者だ、と彼は考えていたようです(野呂p.203)。
(注2)300年前の話ですが、Lukeさんのお話と結構似ているのではと感じます。


(1)ウェスレーは、厳密な罪を、愛の律法を故意に違反する行動と定義し、罪と過ちmistake(身体器官の不完全や不調に起因する)を分けて考えている:知識・注意力・理解力・想像力などの不足から生じる通例の過ちだけでなく、これらを原因とする愛の不足も過ちであろう。私たちが生きている限り、私たちの魂は身体と結び付けられている。このように結び付けられている限り、魂は身体器官の助力によってしか考えることが出来ない。これらの器官が不完全である限り、私たちは考えの上でも、実際上にも、誤りを犯しやすい。

(2)堕罪前のアダムは神の像を所有していたが、それは自然面(不死・理解力・不苦痛など)・管理面(被造物の管理関連)・霊的面(神の愛)に分けられる。堕罪によって霊的面が破壊され、それが他の面にも及んだ。アダムの罪のゆえに、身体器官の不完全さが生じた。

(3)罪だけでなく、身体諸機関の不完全から生じる過ちも、神の像としての欠点であるので、悔い改めと贖いの血が必要。しかし魂が身体にとどまる限り、過ちは避け得ない。聖化されるのは罪に対して。過失は減る(=成長)が、なくならない。

(4)義とされた信者の内にも罪は住み、我らは罪を犯す。しかし我らの内的主動原理は罪ではなく、聖霊さまとなった。罪は残っているが、すでに敗滅が定められており、制約を受ける存在となった。聖霊さまはどんどん罪の領域を克服していく。確かに信者は罪を犯す。しかし、神の意志に服従しようとしていればその信者は罪との戦闘状態にあり、その人の主動原理は罪ではない。(Tヨハ3:9「神から生まれた者は罪を犯さない」とはそのような意味ではないか。)

(5)聖化とは、信仰(と服従)の領域が広がるにつれて、我が内で、王なるキリストが支配する愛の領域を広げてくださること。その結果として、神と隣人を愛するようになり、意図的に律法(愛の律法)を犯すことから、王なるキリストが解放してくださる。義認とは神と人との関係が変えられること。聖化とは実生活上の変化のこと。我らは全的に堕落している。必要なのは、ただ信仰。信仰とは、神の意志に心から信頼し、私たちの全存在を投げかけること。これは行い(日々の決断)において、御霊の実を生む。結局、愛のわざは、信仰のバロメーターである。

(6)完全とは、愛によって心が支配され、意図的に愛の律法を犯さなくなること。
(身体器官の不完全さ・不調によって、十分な愛を供給できない場合があるが、これは身体に起因する過ちであり、罪ではない。)この完全は命令である。不可能なことを神は命じられない。だから、我らはこの意味での完全を信じ、期待し、祈り求めるべきである。神は賜物としてこれを与えたもう。聖さの源は神にのみあり、毎瞬ごとに神に固着しなければどんな聖徒でもたちまち聖さを失う。人がこれを貯蓄し保有する性格のものではない。

(7)祈祷・聖書の学び・聖餐・礼拝・交わり・断食などは、恵みを受け取る手段(メソッド)として神から与えられたものである。それ自身では無意味でむなしいが、それを用いて神さまに近づくと、神さまはそれを通して恵みを下さる。この中で最も大切なのは祈祷である。祈祷は神に近づくための最も偉大な手段にして、神さまとのもっとも深い結合である。他の手段はすべて祈りと一緒になされるべきだ。祈祷の欠如が、霊性の悪化の最大の原因である。また聖書の学びなどだけでなく、断食も、自分の時間を喜んで捧げるものとして有用。

野呂芳男(2005)『ジョン・ウェスレー』松鶴亭(出版部)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/1595/shokaku-top.html

坂本誠「ウェスレーの神学」
http://www012.upp.so-net.ne.jp/marksakamoto/linkp03.htm:05.11/23アクセス
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Re: ニッポンキリスト教聖化について
投稿日 : 2005/11/29 21:06
投稿者 Luke
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> ウエスレアンのきよめの理論だけは遠慮したいです。カルビン派の神の主権的救いと主権的滅びとともに。ありがとうございました。

<アルミニウスvsカルビン>は<ディスペンvs再建主義>のルーツなんでしょうね。

私は自分が何神学なのかは分かりません。ただ御言葉に書いてある通りに、人間に適用しているだけなわけです。で、自分で人体実験しているわけですね。

神学者でも牧師でもなく、霊能者でもなく、あくまでも一介のサイエンティスト(霊を考慮に入れた)でありたいわけです。

ホントのことを言って、私は神学書なるものはまったく読んだことがありません。赤子さんの方が私よりもはるかに知識がおありのようですので、神学について分からなくなったら、ぜひご教授をお願いいたします。
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Re: ニッポンキリスト教聖化について
投稿日 : 2005/11/29 21:06
投稿者 赤子
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Luke先生ありがとうございます。
「罪とは」を読ませていただきました。ウエスレアン系のメッセージでも、これとほぼ同じことを語る説教者もいます。ですから、色々とその中にあってごちゃごちゃになってしまっているんだな、と思いました。聖書にない言葉を持ってきて、それも言語的に、また、前後のかかわりをしっかりと理解しないで語る説教者もいます。きっと、本人が解っていないのかもしれないと思いました。しかし、Sinがきよめられるということを語ることは、大問題だと思います。ウエスレーを通して神様が働かれ、多くの人々が救われたことは確かなことのようですが、それは、市場とか人々の集まるところに出て行ったり、家庭集会でメッセージを語ったりした回数が多かったことも一因ではないかと考えています。何しろウエスレー日記などによると1年間に800回ものメッセージをしているわけですから。立派な信仰者の先輩ですが、ウエスレアンのきよめの理論だけは遠慮したいです。カルビン派の神の主権的救いと主権的滅びとともに。ありがとうございました。
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