携挙とは



携挙という言葉はなじみの薄い言葉で、一種のクリスチャン用語ですが、「携え挙げ」という意味です。すなわち「再臨とは」でも少し触れましたが、イエスが御忍びで再臨されるとき、空中においてご自身の体であり花嫁である教会を引き上げられることを意味します。ノンクリスチャンの方にとっては信じ難いことであると思いますが、イエスは物理的にこの地上に戻って来られ、その隠れた再臨の時にクリスチャンを空中へと引き上げて下さるのです。この時期については聖書学者によって見解が分かれております。いわゆる大艱難の前であるとする説と、後であるとする説です。あるいはすべてのクリスチャンが一時に引き上げられるのか、または少しづつ引き上げられるのかについても意見が分かれております。

クリスチャンにとりましては、このイエスとの物理的邂逅は、真に待ち望んでいた事件であり、その日が来るのをまさに待望しているわけです。1世紀のクリスチャンたちはイエスが昇天されてからわずかしか経っていないのに、主がすぐに戻って来られるという一種の切迫感を抱いておりました。それから約2000年近く経ちますが、未だにイエスは再臨されません。しかしながらその兆しというか、政治社会的状況や自然界の事件などから、イエスの再臨が近いことは感じ取れます。聖書にはイエスの言葉として次のように記述されております:
人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗るものが大勢現れ、「わたしこそそれだ」と言って多くの人を惑わすでしょう。

また戦争のことや戦争の噂を聞いても慌ててはいけません。それは必ず起こるのです。しかし、終わりが来たのではありません。

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは産みの苦しみの初めです・・・。

こうして福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません・・・
荒らす憎むべき者」が自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。


その日は、神が天地を創造された初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日だからです。

そして、もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、一人として救われる者はないでしょう。しかし、主はご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくして下さったのです・・・

にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民を惑わせようとしてしるしや不思議なことをして見せます・・・だがその日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、

星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人々は人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見ます。

そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます・・・
ただし、その日、その時がいつであるかは、誰も知りません。天のみ使いも人の子も知りません。ただ父だけが知っておられます(マルコ福音書13:5-32)。

まとめますと次のような予兆があることが分かります:

timetable.jpga)偽キリストの出現、b)戦争・飢饉・地震、c)福音の全世界的宣教、d)「荒らす憎むべき者」の出現、e)未曾有の苦難、f)偽キリスト・偽預言者による奇跡、g)奇妙な天体現象

全世界的に見て、現在これらの予兆のうちのどれが観察されるでしょうか?そして携挙の瞬間については次のように描写されております:

主は、号令と御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちにご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者がまず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らと一緒に雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちはいつまでも主と共にいるようになります・・・主の日が夜中の盗人のように来るということはあなたがた自身がよく承知しているとおりです(1テサロニケ5:16-17、5:2)。

このように私たちはイエスの再臨にあって、目を覚ましているべきことを警告されています。信者であってもあくまで霊的な目を覚ましていることが、携挙の幸いに与れる条件です。なぜなら、イエスは「盗人のごとく来る」のですから。その時をミスしないことを願います(注)

(注)この図は前千年期再臨・大艱難前携挙説に基づいたものです(Hal Lindsey, There's A New World Coming, Bantam House, 1975より一部改変)。この再臨の時期については多くの有名な学者が論争を繰り返し、分裂や除名事件を引き起こしているという過去の歴史があります。現在の私たちにとって大事なことは、今日という日を信仰によって神様の恵みのうちを歩むことです。私たちは「正当な聖書解釈」によって生きるのではなく、神の御言葉に対する信仰によって生きるのです。
ただし携挙の時期については、最近エレミヤ氏が艱難後期説に立って再臨の時期について独自の議論を展開しておられますので、そちらをご参照下さい(→「
エレミヤの部屋」)。
(C)唐沢治

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