終末予言について


これまでこのホーム・ページのキーワードでも予言の部分についての詳細に関して述べてきませんでした。これはいくつかの理由がありますが、ひとつはこのトピックはクリスチャンの間でも非常にセンシティヴであって、一部の人々の過敏な反応を生む危険性があるからです。黙示録の解釈を知っていることが私たちの肉を刺激し、高ぶりにつながったり、排他的姿勢を生み出すことが多いのです。

実際歴史的にも有名な聖書学者の間で議論がなされ、教会分裂事件などもおきています。しかしながら最近の状況は終末の様相を呈してきており、そろそろ避けて通れないトピックであると判断するにいたり、ここでは特に黙示録の解釈について問題となる点を調べたいと思います。


1.黙示録の構成

まずこの書の名前ですが、ギリシャ語の意味は「露わにする」という意味であって、啓示録と訳すほうが正確です。イエス・キリストの啓示をパトモス島にいたヨハネが霊の中で見る幻を書いており、七つの教会、七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢の幻を中心に展開されており、その途中に挿入される天の光景、サタンの動き、キリストとの戦いが展開し、最終的に千年王国、白い御座の裁きを経て、新エルサレム、新天新地という流れになっています。構造が少しややこしい部分がありますが、まず次のような大きな構成を知ってくださると、啓示録理解の手がかりが得られるでしょう。(Watchman Nee, Revelation, Christian Fellowship Publishers参照

啓示録の構造

T. あなたが見た事柄(1章)

U. 私たちの状況(2,3章)

  (1)現在はない教会:エペソ、スミルナ、ペルガモ(2・1−17)
  (2)現在もある教会:テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキア(2・18−3・
          22)
    −当時の断面的記述であると同時に歴史予言的記述


V. これからおきる事柄(4−22章)

  (1)起きる事柄のアウトライン(4−11章)

    (A)御座における幻(4−5章)
    (B)
7つの封印(6−8・5)
       (a)第1−6の封印(第5の封印の後、第6の封印から最後の7年の後半の大艱難
       に入る:6章)
       (b)挿入的幻(7章)−地:144000人のイスラエル・レムナント/天:あらゆ
              る民族からの大群衆
       (c)第7の封印と天の情景(8・1−5)


    (C)7つのラッパ(8・6−11・19:これは第7の封印の内容である
       (a)第1−6のラッパ(この第5、6のラッパは第1、2の災いと呼ばれる)(8章6
              節−9章)
       (b)挿入的幻−強い天使、巻物、神殿と祭壇、二人の証人、大きな地震(10−11
        ・14)


    (D)第7のラッパ(第3の災い)と天の情景(11・15-19)

  (2)これから起きる事柄の詳細(12−22・5)

    (A)三位一体的サタン(12,13章)
       (a)大いなるしるし(12・1−5)
       (b)逃げる女(12・6節)
       (c)天の戦い(12・1−9)
       (d)大きな声(12・10−12)
       (e)女を迫害する竜(12・13−17)
       (f)海から上がる獣(13・1−10)
       (g)地から出る獣(13・11−18)


    (B)三種の収穫(14章)
       (a)144,000人の初穂(1−5節)
       (b)最初の天使(6,7節)
       (c)第二の天使(8節)
       (d)第三の天使(9−11節)
       (e)幸いな死者(12,13節)
       (f)刈り取り(14−16節)
       (g)酒ぶみ(17−20節)


    (C)7つの鉢(15,16章:これは第7のラッパの内容である
       (a)最後の7つの災い(15・1)
       (b)賛歌(15・2−4)
       (c)7つの災いの前の天の情景(15・5−8)
       (d)第1−6の鉢(16・1−16・12)
       (e)挿入的幻−ハルマゲドン(16・12−16・16)
       (f)第7の鉢(16・17−16・21)


    (D)バビロンの崩壊(17章ー19・4)
       (a)宗教的側面(17・1−18)
       (b)物質的側面(18・1−24)
       (c)天における賛美(19・1−4)


    (E)王とその御国の出現(19・5−20・6)
       (a)小羊の婚姻(19・5−10)
       (b)キリストの再臨(19・11−16)
       (c)ハルマゲドンの戦い(19・17−21) 
       (d)サタンの捕縛(20・1−4)
       (e)第1の復活と千年王国(20・5,6)


    (F)千年期の後(20・7−22・5)
       (a)最後の反逆(20・7−9)
       (b)サタンの最終運命(20・10)
       (c)大きな白い御座の裁き(20・11−15)
       (d)新天新地(21・1−8)
       (e)新エルサレム(21・9−27)
       (f)いのちの流れといのちの木(22・1,2)
       (g)贖われた者の栄光(22・3−5)



W. 結語−最後の警告と使徒の祈り(22・6−21)



2.論点

さて、このような啓示録に向かう際の姿勢として次の4種類があります。

@過去主義:黙示録の内容は1世紀の状況に適用すべきことで、すでに終わっているとする立場。
A歴史主義:パトモスから世の終わりまでの長い時間の流れを記述したものとする立場。
B未来主義:黙示録の記事は主に終わりの時代に起こることを記述したものとする立場。
C理想主義:黙示録は時間を超えた善の悪に対する勝利を描いているとする立場。

次に問題となるのは、啓示録の中に出てくる大群衆、女、144,000人などのキャラクターのアイデンティティと、時系列における各事件の位置と地政学的な場所、また数字や各シンボルに秘められた霊的意義、旧約聖書・福音書・他の書簡における内容との照合が問題となります。

特にここで問題となるのが、キリストの再臨の時期と教会の携挙の時期です。これらの二つの事件は上のタイムテーブルのどこに入るものでしょうか。まずキリストの再臨の時期は大きく分けて、前千年期説と、後千年期説がありますが、私の立場は前千年期再臨説です。

また次の問題はキリストの再臨は見えない形で花嫁なる教会を迎えるための空中再臨と、聖徒とともに地上に来る地上再臨の二段階を取る説と、空中再臨と地上再臨をあえて区別しない、あるいはほぼ同時とする説があります。前説では教会の携挙は艱難前(第1の封印の前)に一度に起きるとし、後説では大艱難後期(第7のラッパの前)に一度であるとします。

キリストの再臨と教会の携挙については聖書の中にジグソーパズルのピースのように、あちこちにちりばめられていますので、いくとおりかの解釈が可能です。上の黙示録のトピックの中でこれらに関連するものをどのように解釈するか、それぞれの説の根拠をまとめてみます。


2.1.大艱難の時期

これは第6の封印の開封において、6・17に「御怒りの大いなる日が来た」とありますので、第5と第6の封印の間であることは争いがありません。このときに反キリストは神の民との契約を破棄し、聖なる都を3年半蹂躙します。この3年半が大艱難の期間です。この内容が主に第7の封印にあり、その中身が7つのラッパ7つの鉢になります。


2.2.キリストの再臨と携挙の時期:

@艱難後期携挙・一度再臨説:

7章にある144,000人のイスラエルの12部族のレムナントとあらゆる国民・部族からの大群衆を同一視し、これらは贖われたクリスチャンたちであるとします。144,000の数字は12×12×1,000と分解し、12は永遠の完成を表し、1,000は神の統治期間を表すから、完成数であるとします。つまり「12部族」とこの数字は象徴的意味に過ぎないとします。

第6の封印の幻はその後の本編の予告編的意味を持っており、彼らは「大きな患難から抜け出て来た者たち」(14節)であるから、大艱難を経ていると判断します。

そして携挙の時期は第1テサロニケ4・16,17に「主は・・・神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」とあり、黙示録20・4,5に「彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。」とあることから、それ以前に復活はない、ゆえにキリストの再臨と死者の第一の復活は同時であり、その復活の後「たちまち」携挙されるのであるから、キリストの再臨の直後であるとします。

そして第1コリント15・52に「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」とあり、「最後のラッパ」は黙示録の第7のラッパであり、それは大艱難後期に鳴るものであるから、キリストの再臨と携挙はほぼ同時に大艱難の終わりに起きると結論します。

黙示録3・10にある「全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」という約束は、大艱難から取り出して守る意味ではなく、その只中にあっても守るの意味であるとします。


A前艱難携挙・段階再臨説:

まず7章の144,000の12部族の者たちを文字通りに解釈します。彼らはユダヤ人であり、数字も文字通りです。したがって大群衆は144,000人とは違う者たちであるとします。そこでこの大群衆のアイデンティティについては、現在の教会としての携え挙げられたクリスチャンたちとする節と、教会ではないとする説があります。前説ですと、大艱難に入る前のこの時点ですでに携え挙げられているとします。後説では解釈が少し複雑です。

第1テサロニケのラッパは「神のラッパ」であり、黙示録の第7のラッパは御使いが鳴らすラッパであるから(11・15)、両者は異なるラッパであり、よってこれは第1コリント15・52の終わりのラッパ」ではないとします。また黙示録20・4,5の「第一の復活」はその前にまったく復活がなかったことを言っているわけではないから、第1テサロニケ4・16,17の復活は「第一の復活」とは異なるものとします。よって携挙は「第7のラッパ」や「第1の復活」の時ではなく、したがって大艱難後期ではないとします。

黙示録4章1節において、「先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。『ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。』」とあり、このラッパこそが「終わりのラッパ」であり、3章までは教会時代を描いており、この時点で「上れ」と言われるから、これが携挙であると解釈します。

こうして黙示録3・10の約束は大艱難を経ることがないという意味での守りであるとします。教会は大艱難以前に携挙され、空中に再臨していた主とお会いして婚姻が行われ、大艱難の終わりになってキリストは彼らを従えて地上再臨するとします。空中再臨と地上再臨の二段階説。

これが現在提出されている再臨の時期と携挙の時期に関する説です。これらのどちらを支持するのかと問われると、私はまだしばらく沈黙を守りたいと思います。ある青写真をもってはいますが、たぶんに論争を引き起こす可能性を持っていますので、時期を待ちたいと思います。


3.解釈における問題点

いろいろな注解書を読んでみますと、次のような問題があることが分かります。

一般に解釈に際して、

人は必ず死ぬ(大前提)
ソクラテスは人である(事実)
--------------------------------
よって、ソクラテスは必ず死ぬ(結論)
という論理を追ってある一定の推理によって解釈を提出しているのですが、しばしば大前提の選択に恣意的要素が入っているのです。

たとえば「私は啓示録の数字は字義通りに取る」と主張する際、その根拠は「私はこう信じる」であることがしばしばです。すると新エルサレムの大きさ12000スタディオン(約2400km)も字義通りとなり、それは新エルサレムを物理的に理解していることを意味します。数字をある時には字義通り、別の時には象徴的に扱うすれば、その根拠は何にあるのでしょう。

また「最後のラッパ」は「第7のラッパ」である/ない、という判断は何によるのでしょうか?しばしば高名な学者も言っているとして、権威付けがなされます。あるいは「第一の復活」は第1テサロニケの復活と同じ/異なるの判断も根拠が不明です。

数学では恣意的に前提とする提言を公理と言います。たとえばユークリッドの幾何学では「平行線は無限に行っても交わらない」を公理とします。しかしロバチェフスキーの幾何学では「平行線は交わる」を公理とします。この公理は公理同士の間に矛盾がなければどのように選んでもよく、その公理群の上に成り立つ論理に矛盾がなければよいのです。この幾何学の上にリーマン幾何学が構築され、それはアインシュタインの一般相対性理論によって宇宙の構造の説明に用いられました。そこで公理の選択は個々の数学者の感性あるいは直感に任されています。

啓示録の解釈ではこの前提の根拠をよく調べてみますと、ほとんどが「I believe」、あるいは「I thinkであったりするケースが多いのです。この判断をとるときにはもっと高次の価値判断を与える規準が必要であることです。ここで一番初めの啓示録に向かう際の統一的姿勢や、神のエコノミーの全体における再臨や携挙や千年王国の位置付けが問題となります。


4.私たちの取るべき霊的態度

こうして携挙とか千年王国とは、神のエコノミーの全体においてどのような位置づけであり、どのような意義を持っているのか、これを明確にする必要があります。この論点については、「神の国(The Kingdom of God)」と「天の御国(The Kingdom of The Heavens)」の関係、また主は「盗人のように戻る」ことや、いつ主が来られても良いように「目を覚ましていなさい」などの警告、およびパウロの「救いは信仰のみによる」という主張と、ヤコブの「救いは信仰のみによるのではなく、行いによって完成される」という一見すると矛盾する真理の中に鍵があると考えています。特に教会とはいったい何のか、これが一番の鍵です。

いずれにしろ、私たちはこの地上の幕屋は究極的な場所ではなく、主が盗人のようにいつ来られても良いように、油を溜めていた賢い乙女であるべきなのです。主が携挙の時期と再臨の時期をこのようにある意味で隠しておられる理由は、私たちが油断なく、霊において目を覚ましている生活を送るべきであると励ましです。そして今ここで主の御臨在にとどまっているならば、携挙されてもそのまま御臨在に留まり続けるのです。今ここで主の交わりから離れて、自分の歩みをしているならば、携挙を見逃すこともあり得るというのが私の見方です。現在のこの生活と携挙は体の変貌を伴いますが、霊的には連続的なものなのです。今このとき霊なる主と交わり、主を主観的に知っているならば、その時にもまったく同じであることができます。解釈の違いを超えて、クリスチャンの願いはただ「マラタナタ(主よ、来たりませ)!」であることは間違いありません。


mbao_a05.gif