聖化とは



聖(Holinessは神の存在の本質的御性質そのものであって、神のその他の属性はすべてこの神の聖性によります。イザヤは神について「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」と呼び、その神()を見たことにより、「ああ、私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから」と叫んでいます。しかし彼はセラフィムが祭壇の上から取った燃えさかる炭をその口に触れたために、イザヤの不義は取り去られ、彼の罪も贖われました(イザヤ6章)。

私たちもイザヤのように、何か神の聖を自分たちとはかけ離れた性質であって、一種の畏敬の念を生ぜしめ、さらには到達不可能であるかのように感じて途方にくれる感じを抱くことがあります。しかるに神は「わたしが聖であるように、あなたがたも聖であれ」(レビ11:45)という過酷な要求をしていると思うと、とてもではないがクリスチャン生活を全うすることはできないと、ある種の絶望感すら感じてしまうのです。かつてカトリックにおいては、この聖を獲得するために、男性は女性と会う時には目をつむるとか、自分で自分の体を鞭打つとかの難行苦行を試みた"聖徒"たちもおりました。現在でもカトリックにおいては、"聖人"と認定されるために、大変厳しい評価基準があるそうです。私などこの基準で計られたら、ああ、もうただちにクリスチャンを廃業するしかないでしょう!?しかしこれらの難行苦行は何の益もありません(コロサイ2:23)。

実は、真理によると、感謝なことに神の目にあって私も立派な聖徒(Saintなのです。このような"絶望感"とか難行苦行へのいざないは、実は聖の意味を誤解することから生まれます。の元々の意味は「神へと分離されること」です。私たちが信仰によってキリストを受け入れた時、私たちは暗闇の支配下から御子の光の国の支配下へと移されました(コロサイ1:13)。この時点で私たちは"聖とされた"のです。すなわちそれは私たちの諸々の属性の何かによるのではなく、ただ神の御業の故なのです。この世から神へと分離された存在とされることが"聖とされる(or聖徒とされる)こと"なのです。ですから私たちは自分の状態を見て判断するのではなく、神の言葉のゆえに、自分が聖徒であると信じる のです。これは信仰を得た時のことであり、ただ1回性のものです。あるいは立場上の聖化(客観的聖化)と言えます。いかなる状態のクリスチャンであっても、すべて等しく神の御前に聖徒とされています。これは歴史的な確固たる事実です。そしてこの立場はいかなる事態があったとしても決して動かない事実であって、この事実の上に私たちは安息して良いのです。

しかしながら、私たちは自分を見る時に、やはり神に対してふさわしくない自分自身のいくつもの要素を感知します。これを見つめれば見つめるほど、私たちは神の前での確信を失ってしまいそうに感じますが、ここでのポイントは悔い改めにあります。自分において神にふさわしくないと感じる要素を見出した時には、ただちにそれを告白しましょう。神に対して隠す必要などは一切ありません。そしてそれをイエスの血で洗い流していただけばよいのです。その時、ただちに聖霊の臨在にある平安と安息が戻ることでしょう(2コリント7:10)。このようにして「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。こういうわけで、わたしたちはあわれみを受けてこの務めに任んじられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦する」ことができます(2コリント3:18;4:1、2)。そして「これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(2コリント3:18b)。

この御霊による働きを私たちの魂の側の心理学的なメカニズムによって見るならば、「信仰による再条件づけ」と言えます。すでに「肉(flesh」について別のところで詳しく述べていますが、簡単に繰り返しますと、神を知らない生活においてこの世をサバイバルするために身につけてきた、私たちの価値観・判断基準(これらはしばしば人生観とか人生哲学などと呼ばれます)や条件づけされた無意識的な習性・習慣による精神的・肉体的な反応・意思決定・行動を総称します。これらがいわゆるその人となりの表現であるわけです(注)
(注)心理学者や精神病理学者はこれを分析して、様々なテクニックにより矯正を加え、この世でのより良い適応を志向するわけです。精神分析、行動療法、さらには自己啓発セミナーなど、みなこの範疇に入ります。

聖書で言う聖化とは、このような「肉」を信仰によって十字架につけて死に渡し(→「罪について」参照)、すでに得ている 内にいますキリストの御性質(新しい性質)に従った新しい思考・情緒・意志・行動のパターンを実現することを意味します。これをメタモルフォーシスと言います。私たちのアイデンティティーは内にいますキリストであり(ガラテヤ2:20)、この方の御性質を私たちの魂、体を通して表現することができる時、神にふさわしい生き方ができるのです。これが神の栄光を現わすことに他なりません。すなわち「あなたがたを召して下さった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者とされなさいそれは『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない』と書いてあるからです」とあり(1ぺテロ1:15、16)、また私たちは「すばらしい約束のゆえに、神の御性質にあずかる者となる」(注)のです(2ぺテロ1:4)。

(注)ある人たちはこの御言葉を根拠に神と人が混ざり合うことによって、「私たちが神の性質にあずかること=私たちが神になること」としておりますが、これはきわめて危険な異端というよりカルト的な教えです。神の性質にあずかり、それを表現することと、神になることはまったく異なる次元の話です。人になられた神の御子を通して明らかにされた神の御性質に、私たちも人として与るのです。神と人は混ざり合うのではなくて、共に住むのです(黙示録21:3)。

このような聖霊の働きによる聖化の過程はいわば主観的聖化と言えますが、これは私たちの肢体に罪が内住している現在においては、私たちの人生を通しての過程であって、決して一夜にしてなるものでもなく、また焦燥感にかられての難行苦行によって達成できるものでもありません。それは聖霊の時期に応じた、聖霊の方法による、聖霊のわざであって、私たちの責任ではありません。私たちの責任は、ただ御言葉と聖霊の導きに対する信仰従順のみです。ですからぺテロも「聖なる者となりなさい」ではなく、「聖なる者とされなさい」と言っているのです。

ここに自分を見て失望する必要のない、神の御手にすべてをお委ねして安息していることができる根拠があります。実は自分では不可能であると知ることは解放です。「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをして下さいます」とあります(1テサロニケ5:23、24)。この約束に安息すればよいのです。

私たちはすでにキリストのご自身の捧げ物によって聖なる者とされ、永遠に全うされています(ヘブル10:14)。そしてその客観的事実に基づいて、私たちの信仰従順において働かれる聖霊のわざにより、再条件づけされることによって、内にいますキリストの御性質に従った感じ方・考え方・立ち居振る舞いをすることができるようになり、神の御性質に与り、表現する者されるのです(1コリント6:20;ガラテヤ4:19;コロサイ1:22)。これが主観的聖化の経験です。それは魂のトランスフォーメーションと言えます。

そしてからだが贖われる時に、私たちは完全にキリストと同じ姿形であることでしょう(ローマ8:19)。これが聖化の究極にある栄光化です(ローマ8:23)。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちをとし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」(ローマ8:29、30)。これはキリストの再臨の時に完全な形で実現するのですが、現在でもその栄光に与ることができるのです。

(C)唐沢治

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