霊の機能と魂・体の相互作用について


すでに人の構成が、からなることを説明しました(→「人間とは?」)。その際、霊についての詳細に触れませんでしたが、クリスチャンの信仰生活にとって、霊の機能とそれらの魂との関係を知ることはきわめて重要です。聖書では「人間の息(霊)は主のともしび、腹の底まで探り出す」と言われています(箴言20:27)。堕落の後、人の霊は機能を失って神との交わりから絶縁されていましたが、信じるときに霊が再生されて、当初の機能を回復するのですが、その霊の機能には次の3つがあります:@ 良心 (conscience)、A 直覚 (intuition)、B 交わり (fellowship)
【注】なお、以下の論点について詳細に研究されたい方には、"霊精神身体医学"の古典とも言うべき名著:Watchman Nee, The Spiritual Man vol.I-III, Christian Fellowship Publishers, 1968 をお奨めします。
@ 良心

これについては経験的に誰でもお分かりであると思いますが、実は霊の機能の一部です。ヨハネ福音書では「その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせる」(ヨハネ16:8)とあり、ヘブル書では「私たちの良心に注がれたイエスの血が邪悪な良心をきよめる」(9:14,10:22)とあります。またロマ書では「私の良心も、聖霊によって証ししています」(9:1)とあります。聖霊は霊的な存在であり、イエスの血も霊的なものです。その霊的な存在が私たちの良心に影響を与えるのですから、良心も霊的なものであるはずです。良心は神との関係においてもっとも先に処置を受けるべき機能であって、良心が聖霊によって促しを与え、それによって私たちは自分の罪を認め、悔い改めに至るのです。

A 直覚

これはいわゆる直感とか第五感と言われるものではなく、あくまでも霊的事柄に対する理解をもたらす霊の機能です。例えばイエスは律法学者の思いを「ご自分の霊で見抜」かれました(マルコ2:8)。また「霊の中で深く嘆息」されました(マルコ8:12)。さらに「霊に憤りを覚えられ」(ヨハネ11:33)、「霊の激動を感じ」られました(ヨハネ13:21)。また霊は人の心の奥底までも探られ、神のことを知ることができます(1コリント2:11、12)。私たちはある状況において、ある御言葉が自分の中に飛び込んでくるように感じる経験や、神の言葉が確かに語られ、ある事柄に対する確信を得る経験をします。それはまさに神の言葉であると分かるのです。あるいは祈ったことがかなった、すでに得たと分かるのです(ヘブル11:1、→「信仰と希望について」)。これは疑いようもなく真理であって、英語で言えば"I know that I know."と言うべき経験です。クリアに分かるのです。これは御霊によってもたらされる霊の直覚による霊的真理の主観的把握です。

B 交わり

これは神との甘く麗しい文字通りの交わりです。御霊は私たちの内でイエスの言葉・わざ・パースンを証しして下さいますが、そのイエス様との霊的な交わりです。イエスは「神は霊であるから、霊とまことによって礼拝すべきである」(ヨハネ4:23)と言われました。霊である神を礼拝するのは、私たちの霊においてであり、それは光を感知するのは目、音を感知するのは耳、匂いを感知するのは鼻であるように、霊である神を感知するのは私たちの霊なのです。聖書はまた「知性によって神を知るに至らなかった」(1コリント1:21)と言っております。神は知性の領域にも、感情の領域にも、意志の領域にも住まわれません。霊の領域に住まわれます。また最後のアダムであるイエスは復活の後、いのちを与える霊(注)となったとあります(1コリ15:45)。地上にいたイエスは肉体によって制限を受けておりましたが、復活の後、復活の体をもって昇天された後、聖霊によって霊的存在として私たちの内に御臨在される方になりました。栄化された肉体も取られながら命を与える霊として私たちの霊に内住される方であり、その方との交わりを霊によって得ることができるのです。

(注)一部の人々は、この節を根拠にイエスは復活の後"御霊になった"と主張しますが、これは御子と御霊の位格の区別を認めないもので、異端的です。この章は復活を論証しているのであって、復活の後イエスは肉体に制限されない、霊的領域に御臨在し得る存在となったことを説いている章です。

spirit.jpg人の内において起きている現象あるいは各機能の状態を総称してheart)と呼びますが、霊の再生を受ける前には、soul)の機能である思いmind)、意志will)、感情emotion)、そして霊の機能の一部である良心conscience)の働きのみが経験されます。

私たちの魂の3つの機能は互いに影響を及ぼしあい、かつ魂と体も影響し合っておりますが、霊と魂も互いに影響し合っております。経験的に言えば、主に、良心は意志に対して、直覚は思いに対して、交わりは感情に対して影響を与えます。

私たちの意思決定には、良心の状態が多大な影響を及ぼします。良心の咎めがあれば、意思決定も取り繕いに満ちたものとなり、不安定で性急なものとなりますし、咎めがなければ安定してゆとりのあるものとなります。

また霊的真理の把握はまず霊においてなされますが(1コリ2:14:原意)、その解釈をするのは思いです。思いにおいて適切に言語化あるいは映像化されて初めて霊的事実を理解することができます。

そして神との交わりによって霊によって神の愛に触れるとき、私たちの感情は甘さを感じ、潤され、柔らかくされ、平安と安息が満ちるようになります。感情に反映された神の御臨在を実際に感じることができるのです。

そして魂の領域では、主に、思いと感情の相互関係が意志に対して影響し、最終的に体を実行媒体として何らかの行為が成立するわけです。この行為の結果(実)として、感情や思いがフィードバックする形で影響を受けます。満足する結果であれば、感情は平安と安息に満たされ、思いは安定しますが、逆の場合はフラストレーションと緊張で満ち、思いは混乱するでしょう。

ここで大切な点は満足する結果を得るためには真理に従うことです。真理を知るのは私たち知性(思い)ではなく、まず霊の直覚によります。その直覚を知性が解釈するのです。そのためには霊と魂が分離される必要があります(→「霊と魂の分離について」)。こうして目に見えるものに左右されず

 霊(直覚)→真理の把握(思い)→意思決定(意志)→行動(体)→平安と安息(感情)

という霊的な行動パタンが成立します。これに対して肉的または魂的な行動パタン

 環境/事実→思いでの評価⇔感情の混乱→偽りを信じる→意思決定→行動→不安と不満足

となります。しかし霊の人は霊によって霊的事柄を把握するのです。

ちなみに、1コリント2、3章では、3種類の人々が出てきます。@ 霊の人(1コリ2:15)、A 魂の人(1コリ2:14;原語)、B 肉の人(1コリ3:1)です。霊の人は人の言葉によらず、自らの霊によって御霊の照明の下で神の事柄を判断します。魂の人(新改訳では"生まれながらの人")は、自らの魂(知・情・意)を用いて、神の事柄を知ろうとしますが、それは愚かに見え、結局は受け入れません。肉の人は、自らの肉的性質によって物事を判断し、意思決定し、行動する人です。霊的なことは霊によってのみ知り得るのです(1コリ2:14)。

さて、霊において御霊に導かれ、信仰によって霊的な内的機能のパタンが条件付けられることは、内的にイエスの形が形作られることを意味し(ガラテヤ4:19)、私たちの存在や行為を通してイエスの栄光を表現するようになっていきます(ロマ8:21)。これがいわゆる魂の聖化のプロセスです。この意味で私たちの心の状態のあり方がきわめて大切であることになります。

イエスは「人は心にあることを口が語る」と言われました。そして口が語ることは心で信じたこと、すなわち言葉は信仰の表現なのです(2コリ4:13)。そしてイエスは「あなたが信じたとおりになるように」と言われました。この意味で私たちの心のあり方が私たちの運命を決定すると言えます。ヤコブも「二心の人は安定がなく、主からいただくことはできない」(ヤコブ1:8)、また「舌は船のかじ」であると言っております(ヤコブ3:4)。さらに箴言4:23では「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」とあります。何よりもまずこのように心の状態を整えることはきわめて重要なことである分かります(箴言参照)。

その場合に最も大事なことは、まず第一に良心です。神の前で明らかな良心を持つためには、自分の行為や自分の何かに頼る限り不可能です。自分を頼りとするならば、ますます良心は確信を失って、クラッシュしてしまいます。良心はただイエスの血によってのみ聖くされ、サタンの前で確信をもつことができるのです。すると神との交わりによって感情は安定し、直覚は鋭くされ、思いは清明にされて、神の事柄をより明確にわきまえることができ、意志はそれに従って機能し、体が実際に行為するようになります。するとこれは真理に基づくものですから、必ず聖霊の実、すなわち愛、喜び、平安、柔和、寛容、誠意、善意、親切、自制を結びます。

仮にもし良心が汚れたら、直ちに告白し、イエスの血で清めていただくことです。このようにして、私たちの心は真理の中で御霊の力によってイエスの経験していたであろう内的状態へともたらされていきます。イエスの心が私たちの心の中で追体験されていくのです。これは素晴らしい経験です。こうしてこれが習慣化され、ついにはイエスの形が内に形作られるのです。究極的には体も贖われて栄化され、ついに神の子の出現をもたらすのです(ロマ8:19−23)。ハレルヤ!


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