霊と魂の分離について



私たちは (body) (soul) (spirit)の3部分から構成されていることはすでに述べました(→「人間とは?」)。私たちは経験的に、体の感覚と魂の感覚の違いは簡単に理解することができます。手に怪我をしたら、あくまでも痛みを感じるのは手です。あるいは失恋した時に痛みを覚えるのは手ではなく、感情です。

もちろん体と魂は相互に影響を及ぼし合いますが、体と魂の違いは比較的簡単に認識できます。しかし霊と魂の分離については、それが物理的実在ではないという点において、その相違を認識するためにはある程度の熟練が必要となります。

クリスチャンになることは、罪の結果死んで無感覚にされた霊が再生されて、霊に感覚が戻り、それを通して神との交わりが再開されることであるとすでに述べました(→「再生とは?」)。ところが霊が再生されることによって、実はかえってある種の混乱が起きてくるのです。

それまでは神から分離された結果として自らの魂を肥大化して生きていた私たちの内面において、新しい機能が生きてくるからです。すなわち、魂の思い、意志、感情によってのみ内面生活を送っていた私たちに、霊的な感覚が加わるのです。これで内面生活がちょっと複雑になるわけです。

クリスチャンになった当初はしばしばこのためにある種の内的混乱を生じることがあります。やたらとアップダウンが激しくなってみたり、それまでの嗜好が変化したり、自分で自分に困惑したりといった具合に、非常に多彩な内的経験を生じます。つまり霊の機能が復活したことによる新しい内的経験が加わるからです。そしてそのような混乱の時期はある程度の時間が経ちますと落ち着きを見せますが、次に問題となるのが、今回のテーマである霊と魂の分離、あるいは識別の問題です。

ヘブル書4章12節には次のようにあります:「神のことば(注1)は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く,たましいと霊(注2)、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます」。この御言葉は何を意味しているのでしょうか。
(注1)ここでの「ことば」はロゴスです(→「言葉と命について」)。
(注2)口語訳では「霊魂と精神」となっていますが、原語ではあくまでも「霊
(spirit)と魂(soul)」です。

クリスチャンとしてある程度の経験を積みますと、私たちは聖書の御言葉通りに、「目に見える所によらず、信仰によって歩もう」と努めたり、あるいは聖霊のさやかな「内的な声」を聞いて主に絶対的に従おうと試みます。ところが誘惑が来り、目の前の実際が自分の願いと違ったりするとたちまち打ち倒されてしまうという経験をします。そこでまた新たに努力を再開しますが、再び結果は同じです。

こうしてパウロがローマ書7章で記述している「内的葛藤」に落ち込んでしまうのです(→「罪とは?」)。この内的葛藤の精神病理はすでに述べましたが、そのような葛藤に陥るもっとも根本的な原因は、実は霊と魂が分離されていないことにあります。魂と霊が癒着しているために、魂が霊を覆い包んでしまうのです。しかも魂は体の五感とか外界の影響をもろに受けます。こうして私たちは魂の状態によって振り回され、私たちの内的生活は不安定になるのです。

私たちの魂は思い、意志、感情から構成されていて、私たちのパーソナリティー(自我)の座です。肉体の感覚器を通して入力されるあらゆる情報を処理し、評価し、意志決定し、行動に移します。その過程で感情は自分の願いや予測と現実が一致するならば安心感を覚え、食い違いが生じると不安感を覚えたり、絶望感を感じたりするわけです。これが私たちの魂の機能であり、現代人は特に教育や自己啓発と称して思い(知識と知性の複合体)を異常なまでに発達させているのです。これに対して霊は神を意識する座です。「神は霊ですから、礼拝する者も霊とまことをもって礼拝すべきである」のです(ヨハネ4:24)。

さてここで問題の核心に迫ります。いつもの卑近な例ですが、自分の必要とするお金が目の前にないとき、あなたはどうしますか?目の前にお金が不足しているというのは事実(現実)です。一方神の言葉(ロゴス)は「私たちの必要はキリスト・イエスにあって神がすべて満たしてくださる」とあります(ピリピ4:19)。大事な点は、神の言葉は真理であって、目の前の事実と相違した時、私たちはどちらを信じるか、ということです。

すでに述べたことを読まれた方は、あくまでも神の言葉を信じようと努力されることでしょう。しかし実際の経験は頭では分かっていても、どうしても平安が得られずに焦りや不安を覚えるのです。何故でしょう。それはあなたがその真理を魂のレベル、特に知性で取り扱っているからです。あなたの確信はあくまでも心理学的なものであって、目先の条件によって吹き舞わされます。それは魂の機能によるのです。

神の言葉は本来霊で受け取るべきものです。あなたは魂の働きを霊の働きと弁別できていないので、「信仰を持った」と思っても、目の前の事実に直面するとすぐに揺らいでしまうのです。ここで霊と魂がクリアーに切り分けられる必要が生じるのです。霊で受け止められた神の言葉(ロゴス)はただちに聖霊によっていのちとされます(→「言葉と命について」)。あなたの内的生活は豊かに安定するでしょう。魂で受け止められた神の言葉は単なる知識を増やすだけです。神の言葉を聞く時に、あなたは霊で受け止めるのか、魂で受け止めるのか、すなわち霊と魂の分離が必要となります。

さらにもっと高尚なケースとして、神への奉仕について見てみます。クリスチャンとして私たちは神への奉仕をなしたいという強い欲求を覚えます。これは霊の再生の一つの証拠と言えます。そしていろいろなアイデアとか考え、いろいろな働きや活動を行います。ここで問題となるのが、再び霊と魂の分離です。それらのものは一体どこに由来するのでしょうか。しばしばそれらの要素は私たちの魂に由来する場合が多いのです。そしてその動機は自分にあります。すなわち自己の栄光です。いずれ魂由来の動機と活動はそのエネルギーが尽きて、必ず頓挫することでしょう(→「自己を否むことについて」)。

このような場合における動機の純粋性は、霊と魂が分離されている時に担保されます。人の心の奥底まで知っているのは人の霊なのです(1コリント2:11)。心はよろず偽るものです(エレミヤ17:9)。しかし神は私たちの心の奥深くを探って下さいます(エレミヤ17:10)。そしてそれは両刃の剣よりも鋭い神の言葉によります。私たちが神の言葉に来る時、私たちの心はすべて明らかとされます。

また特に私たちの生まれつきの嗜好とか愛情の問題は、霊の再生を受けた後も大きな問題を引き起こします。イエスは「誰でも私より父や母を愛する者は、私にふさわしくない」と言われました。とても過激な言葉ですが、私たちの魂の性向を指摘しての発言です。すなわち私たちの魂が生まれつきの嗜好や愛情を留保している限り、霊的な存在であるイエスに心を注ぎ愛することが困難になるのです。クリスチャンはよくノンクリスチャンと恋に落ちて、深刻な葛藤をする場面に陥ることがありますが、これも魂の生まれつきの嗜好や愛情に関る問題です。

実は、私たちはこの領域において自分の魂を否むことをできるだけしたくないのです。魂の自己保存欲求が顕著に働くのがこの領域です。罪の問題とか自分の短所などについては自分の魂を喜んで否み、御霊のもたらす新しい性質で、新たに満たしていただきたいという願いが強く働くのですが、この領域は一見罪的に見えず、悪いことではないように見えるので、なかなか明け渡すことができません。そこで御言葉による霊のメスをもって、聖霊による霊と魂の分離手術が必要となります。このオペを受け、霊と魂が分離されるならば、それまでは純粋で良いと思っていた自分の愛情が、実はきわめて自己中心的で、不純な動機によるものであるか、明確に見えるようになります。そして魂の性向によって条件づけられた愛ではなく、御霊のもたらす愛によって、愛することができるようになります。

いずれの領域にあっても、旧約時代に祭司たちが犠牲の小羊の解体を行い、関節と骨髄をするどい刃物で切り分けたと同様に、神の言葉は私たちの心を露にし、霊と魂を切り分けるのです。もちろんその時、実際の執刀をして下さるお方は聖霊です。聖霊が鋭いメスである神の言葉(ロゴス)を用いて、私たちの内面の手術をして下さるのです。霊と魂の分離手術です。ここに十字架の本質的機能があります。

すなわち十字架は私たちの霊と魂を切り分ける手術場なのです。そこでは私たちの心のもろもろの要素はすべて解体されて、無残な状況を繰り広げますが、次に来るステップが聖霊による復活の作業、霊における再建の作業なのです。このような過程を経て、私たちの内面にはキリストの形が形造られていくのです(→「肉について」)。これが聖化のプロセスです。血も流れますし、悲惨な状況にも見えますが、イエスですら経られた過程であって、私たちも真に神に委ねていればいるほど、そのような手術が聖霊によってなされます。

ただし安心して下さい。聖霊はそのようなオペの達人であり、すべてはあなたに適した最善の術式に従って秩序正しくなされているのです。聖霊がミスをなさることは断じてあり得ません。ですから安心して真の魂の名医である聖霊に、あなたの全存在をお委ねしましょう。聖霊は神の愛によって、私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって人知を超えた平安で満たし、私たちがなるべく痛みを感じないように麻酔さえもして下さるのです(ピリピ4:7)。

こうして霊と魂が切り分けられるならば、魂があることに集中して意識の上では神を忘れている時でさえも、霊においては神との交わりを維持することができるのです。魂が苦悩に満ちている時も、霊は穏やかであり、神の御前で仕えることができます。反対に魂が歓喜で満たされている時も、霊は穏やかであり、神の御前で仕えています。

すなわち魂の状態(いわゆる精神状態)に影響されることなく、霊はつねに神の御臨在にあって、神を礼拝し、神を崇め、神に仕えることができるのです。霊は自分の魂の状態をあたかも他人のことのように眺めているだけになります。こうしてこの世における様々な事柄や自分の感情や人からの影響に揺り動かされることなく、神の御前で霊の深い部分にある平安と安息、そして神の御臨在に与ることができるようになります。この点ブラザー・ローレンスは達人でした。彼は周りが騒々しい皿洗いの最中にあっても、絶えず神の御臨在を楽しむことができたと証ししております(『敬虔な生涯-神の御前にある修練-』」)。

物理的にはこの世にいても、霊的にはまさに天においてイエスと共に神の右に座し、神の御臨在を楽しんでいるのです。こうして目に見えるものによらず、信仰によって歩むことができるようになります。目に見えるものは一時のものであり、目に見えないものこそ永遠のものなのです。


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