1.人物像
キリキヤのタルソに生まれ、ユダヤ名をサウロと言います。出身はベニヤミン族で、ガリガリのパリサイ派であり、誕生の時からローマの市民権を所有していたので、裕福な家の出であると思われます。タルソは当時の有数の学術都市であり、パウロはヘブル語、ギリシャ語に通じていたことから、その時代の一流の学問を身に付けていたものと考えられ、特にユダヤ教については人よりも秀でた存在であると自称し、実際当時の一流のラビ・ガマリエルに師事していました。そのため、当初、彼は教会を荒らし、クリスチャンに対しては容赦のない迫害を加え、多くのクリスチャンを捕縛していました。最初の殉教者であるステパノの処刑についてはパウロが責任の一端を負っていました。しかしある日天からの光で打ち倒され、盲目にされ、その時にイエスの声を聞き、劇的な回心をします(A.D.35)。
その後は、天幕作りをしながら、3回にわたり地中海世界を何千キロと福音伝道の旅をし(注)、神の啓示を得て、神の御言葉を完成し、新約聖書の約2/3を書きました。彼の当代随一の頭脳が神によって用いられたのです。彼はきわめて個性と自己主張が強く、感情の人というよりは、知性の際立った人物でした。回心後も、その書簡にあって彼は、感情に訴えるというよりは、神の啓示を論理的に説明し、また人々に対しても時に厳しく叱責したり、矯正したりしています。しかしパウロがいなければ、聖書の啓示は完成を見ず、私たちは神のほとんどの御旨と富を失うことになります。その後西欧史は、聖書と教会を中心に展開するのですから、この意味で、パウロこそ世界史を動かした男と言えます。しかし彼自身はAD67年ごろ、かの悪名高いネロによって斬首されたと言われております。
(注)パウロの旅の行程を御自身がたどった記録を写真と文書でまとめた貴重なHPがあります(→「使徒パウロの旅」)。これを見ますとパウロの旅の追体験が可能です。
2.主要なエピソードとその霊的意義
物 語
自らバリバリのパリサイ人と称するサウロは、イエスの追従者、すなわちクリスチャンをユダヤ教の敵と見て、自ら教会を荒らし、多くのクリスチャンを捕縛しては投獄していました。ステパノが殉教する際も、その処刑について彼は賛成しておりました。そしてある日、主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意志に燃えて、大祭司より諸会堂宛の手紙を書いてもらい、彼らを片っ端から捕縛してエルサレムに連行することを企てていました。ところが、ダマスコの近くまで来た時、突如空から光が彼を巡り照らし、彼は地に打ち倒されました。その時、天から「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞き、サウロが「主よ、あなたは誰ですか」と尋ねると、「わたしはあなたが迫害しているイエスである」との答えを聞きました。その後彼は3日間目が見えなくされ、飲まず食わずの状態でした。
一方、ダマスコのアナニヤという弟子に主が現れ、彼がサウロを訪ねて手を置くと、サウロの目が開く幻を見ましたが、アナニヤはサウロの悪評を知っており、主と口論しますが、主は「サウロはわたしの名を異邦人、王たち、イスラエルの子孫に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまねばならないかを、わたしは彼に示すつもりです」と語られました。そして実際にアナニヤはサウロを訪ねて手を置きますと、彼の目からうろこのようなものが落ちて、目が開きました。そして彼はバプテスマを受け、ダマスコにとどまり、ただちにイエスが神の子であることを宣べ伝え始めました。これによってクリスチャンたちは驚き、困惑すると共に、かつての迫害者がイエスを告白していることのゆえに神を賛美しました。
霊的意義
これまで旧約聖書の人物においても見てきたとおり、神の業は人間的視点から見て、まったく可能性のない場面でなされます。人間の評価によるならば、イエスの福音を宣べ伝え、神の啓示を完成して文書に残す働きをする器として、サウロほど不適切な人物はおりません。現代で言えば、共産党の中央執行部幹部にして、クリスチャンを何人も処刑した人物を想定すれば状況を理解できます。私たちであれば、誰がそのような人物を選ぶでしょうか!しかし神はそのような人物をあえて選び、ご自身の御名と啓示を委ね、単にユダヤ人社会だけではなく、広く全世界(当時の地中海世界)に伝えるための働きを任されたのです。神の視点と人間の視点はいかに異なることでしょう。この回心の経験の後、彼はサウロからパウロへと変えられ、全世界に福音を宣べ伝え、かつ神の啓示を文書(書簡)にまとめていくわけです。後に彼のこれらの書簡と他の働き人のものが集められて、新約聖書が編集されるわけです(3‐4世紀)。
一方、サウロの側から見てみましょう。彼は自らをヘブル人の中のヘブル人、パイサイ人としては欠点がなく、ユダヤ教信心に邁進していたのです。彼は何らの疑いも持たず、宗教的確信を持って、ステパノを処刑し、弟子たちを捕縛していたのです。そのことに全精力と全生活を投入していたのです。その彼が何の前触れもなく、突如天からの光で打ち倒され、自分が神のために良しと思ってしている行動が、実は主であるイエスを迫害していることであると否応無しに知らされたのです。興味深いのは、サウロはクリスチャンを迫害していたのですが、イエスは「自分を迫害している」と言われたことです。すなわち主から見て、イエスとクリスチャンは霊的に同一視されているのです。この瞬間のサウロの困惑とショックはいかばかりであったでしょう。
さらに彼はアナニヤという名も知られない一人の兄弟から目を癒されるのです。彼の盲目は彼の内的なショックの表現であり、彼の肉体の目が開くと同時に、彼の霊の目も開き、イエスが神の子であることを見るのです。しかしサウロはこの偉大な真理を見るために、なんと自らを低くされたことでしょう。現代で言えば、一流の神学校で神学博士(Th.D.)を取得した人が、名も知らない一人の平信徒によって、その目を開かれるのです。彼のプライドの置き所はどこにあるでしょう?ここでも神のわざのなされ方、すなわち、「自己の死」、そして「死と復活の原則」を見るのです。
そしてイエスが神の子であることを知らされたサウロの内的ショックと混乱を考えて下さい。再び現代的に言えば、共産党の中央執行部の幹部が、共産理論が偽りであり、実は聖書の使徒行伝からヒントを得て創作されたものであることを知った瞬間に喩えられるでしょう。かつて天皇を「現人神」と信じ込み、お国のために命をも投げ出そうとした人が、戦後どのような精神状態をくぐられたか考えて見てください。あるいはもっと卑近な例では、自分の親と信じていた人が実は違っていた場面を想像してください。自らのアイデンティティーと信条が根底から覆されるのです。まさにサウロにとって、この事件は彼の十字架でした。彼はいきなり「ペヌエルの経験」をしたのです!彼は砂糖まぶしの福音を聞かされつつ、自問自答を繰り返して、ある日ようやくイエスを告白する決心をする、現代のクリスチャンたちのような回心ではなかったのです。否応無しの、極端に言えば、暴力的な回心の経験だったのです。
その後彼は3年間ほど一人アラビヤに退き、その間の彼については何も記録がありません。おそらく彼は自らの「来し方」を振り返り、自らの「信仰」を総括し、新たに神からの啓示を受けつつ、新しい信仰とキリストにある新しい自分を建て上げる作業に沈潜していたものと思われます。彼にはそのような時間が必要だったのです。
「自分は多くのクリスチャンを迫害したと思っていたのが、実は主であるイエスご自身を迫害していた。これまでの自分の人生は何だったのだろう。自分の信奉した旧約聖書とは一体何なのか。イエスとの関係は・・・?それにこれから自分がクリスチャンとして多くの人々に福音を伝えると言っても、それまでの自分を知っている人物はどう受け止めるだろうか、それにおめおめと自分のそれまでの信条と行動の反対のことを証しするのもプライドがうずく・・・」と、彼が考えたかどうかは分かりませんが、もし私であったならば、そのように考えるでしょう。そこにはとてつもない自分自身と他人に対する誠実さが要求されるのです。この間の彼の内的葛藤のなごりは、彼の得た啓示や使徒職の神独自の由来性などの主張という形で、その後の彼の文章にしばしば観察されます。例えば、
・使徒となったパウロ−私が使徒となったのは、人間から出たことではなく、また人間の手を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです(ガラテヤ1:1)。
・(自分は人の歓心を買うつもりはなく)わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。それを人間からも受けず、たがイエス・キリストの啓示によって受けた(ガラテヤ1:11-12)。
・(自分はかつては教会を激しく迫害したが、神が私を選び)御子を私のうちに啓示された時、私はすぐに人に相談せず、先輩に面会もせず、アラビヤに出て行った(ガラテヤ1:15-16)。
・(それから14年たって)エルサレムに上ったが、それは啓示によった(ガラテヤ2:2)。おもだった人は自分にとっては問題ではなく、神は人を分け隔てしない。彼らは私に対して、何も付け加えなかった(ガラテヤ2:6)。
・(キリストは)月足らずで生まれた者と同様な私にも現れてくださった。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者である。なぜなら、私は神の教会を迫害したからだ。ところが、神の恵みによって、私は今の私になった。私は他のすべての使徒たちよりも多く働いた。しかしそれは私ではなく、私のうちにある神の恵みである(1コリント15:8-10)。
このように彼の主張と弁明の特徴は、肉においては劣った立場にあり、霊にあっては優っている立場にあるとパターンです。実際、彼はそのとおりであって、第3の天にまで引き上げられて、人間の言葉ではない言葉を聞くほどの経験をするわけです。反面、その素晴らしさのゆえに、パウロが誇り高ぶらないように、彼の肉に刺(注)が与えらました(Uコリント12章)。このような「霊的な高み」と、「肉における低さ」の両極端の絶対的乖離という、一種の霊的緊張状態における自己主張と弁明の様子に、彼の内的葛藤の痕跡を見ることができるのです。弛緩した霊と精神からは何も生まれません。イエスも「熱いか冷たいかであれ」(黙示録3:15)と要求されます。現代の日本のクリスチャンは中間的状態にあるのが最大の問題点です。
(注)彼の表現「私の肉(fleshであってbodyではない)に一つの刺を与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです」(Uコリント12:7)は通常ガラテヤ4:15の記述などから推理して、「彼は(マラリヤなどの)持病を持っていた」と解釈されていますが、この「刺」とは「サタンの使い」であって、決して病気とは結論できません。旧約聖書の民数記などでは「わき腹のとげ」という言葉でヘブル人の敵を表現しています。しかもパウロはその後の節で、「私の弱さを誇る」として弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難をリストアップしています。そしてその前に主は「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われるのです。すなわち、論理的な連鎖を追うと、「刺」は「サタンの使い」であり、パウロを悩ませ、弱さを覚えさせる対象、すなわち「パウロの弱さ」であり、その「弱さ」のリストの中には病気は入っていないことは明白です。これ以上の議論は書かれていない以上、それはspeculationに他なりません。
客観的に見てパウロは霊的に他に比肩する者のない存在でしたが、主観的に彼自身はかつての自分を思い起す時、そのことを誇ることができないのです。ここで彼の肉は自ずと否定されざるを得ないのです。彼のすべての過去の実績やプライドは真理を前にする時、砕かれ去るのです。パウロは「私に習う者となりなさい」などの言葉によって、高ぶっていると誤解されますが、実は真の意味のへりくだり(注)を知っていたのです。
そこで神は、ある意味で安心してパウロに真理を委ねることができたのです。中途半端な器に任せるならば、その得た啓示の高さのゆえに容易に高ぶり、サタンのわなに陥ることでしょう(Tテモテ3:7)。彼のミニストリーの開始から、彼の精神状態は「霊と肉の葛藤」というある種の緊張状態に置かれていたのです。そのような彼の内的状態こそ、神の啓示を受けるにふさわしく整えられた土壌であり、その個人的な内的葛藤から、あの深くて豊かな諸書簡が生まれ、新約聖書の約2/3を構成するに至るのです。
(注)「へりくだり」とは、日本的な自己卑下的な謙遜ではありません。事実を事実と認めることが真の「へりくだり」です。パウロは真に霊にあって、真理のうちを御霊の導きの下で生きていたからこそ、真にへりくだった者として、「私に習いなさい」と言えたのです。「へりくだり」を知らない者には言えない言葉です。
3.神の全計画における意義
パウロはオリジナルな12使徒の一人ではありませんでした。また彼の回心は私たちのケースとは異なっています。前述したように、神の目的の遂行のために、神によって半強制的に建てられた器であると言えます。その務めとは、パウロの言葉によりますと、
あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。この奥義は、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかるものとなると言うことです。私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの計り難い富を異邦人に宣べ伝え、また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするために他なりません。これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、私たちの主イエス・キリストにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです(エペソ3:1−11)。
もはや蛇足になりますが、一言で言って、旧新約を通しての鳥瞰図的な神の完全なる啓示を得、それを御言葉として記録することこそ彼の務めであったと言えます。