(注)このような思想によって、イエスは卑しい肉体を持っていない単なる霊的存在であるとする異端「キリスト仮現論」が生まれました。ヨハネはこれに対して明確にイエスの受肉を主張しています。
ではこのような場合の「
肉
」とは何を意味するのでしょうか?例えば卑近な例として、次のような状況を考えてみてください。自分の銀行の残高がごく僅かになった時、あなたはどうしますか?おそらくその事実によって不安を覚えたり、恐れを覚えて、何とかしなくてはと考えるでしょう。そして取り得る通常の方法は二つしかありません。
一つは収入を増やす努力をすること、二つめは出費を抑えること。このようにある事実に直面した場合、私たちは過去の自分の経験や知識に基づいて、ある種の情緒的反応を示したり、また知的レベルではその事実をアセスメントし、その中で取り得る最善の方法を選択し、そしてそれを実行に移します。これは自分が生きてきたこれまでの
神なし
の経験から学んだ方法であって、心理学的には
「条件づけされた情緒反応あるいは行動パターン」
と言えます。
すなわち私たちの肉体の一部である大脳には、ある種の神経細胞のネットワークあるいは電流の流れるパターンが組まれているのです。これらはすべて神を知る
以前に
刷り込まれた情緒反応あるいは判断と行動のパターンです
(注)
。これは魂には独立独歩する性向があり、魂が神の御霊を拒んで独立して機能するとき、これも肉を構成します。善悪知識の木の実を取って食べたことにより、神の御霊の干渉を受けることも拒むほどに、人類は魂を肥大化しました。この神から離れた魂のあり方がまさにパウロの言う「
肉
」に他なりません。
ここで注意すべきは「
古い自己
」と「
肉
」は違うということです。「
古い自己
」は旧創造に属するアダムの性質を継承した存在であって、それはすでにイエスとともに歴史的事実として1回限り十字架に付けられています(ローマ6:6)。しかし「
肉
」とは私たちの物理的肉体の一部である大脳に刷り込まれたパターンなのです。これは日々
私たち
が自ら十字架によって対処する必要があります(→「
罪とは?
」)。
(注)現代脳科学では、精神現象を神経細胞(ニューロン)のネットワークにおける電気的活動パターンと、シナプスにおける化学伝達物質の分布濃度で説明していますが、それは精神現象の物理化学的側面であって、魂の機能自体ではありません。すなわち大脳はいわばコンピューターのハードであり、魂(思い、意志、感情)はそのハードの上に走るソフトなのです。精神現象は決して物理化学的現象のみに還元することはできません。いわゆる「脳死」の問題も、このような観点から論じないと、きわめて危険な事態に立ち至ります。クリスチャンの場合、 「新しい人」という「新しいソフト」を得たのですが、ハード(大脳)の部分に古い「条件付け」の名残があるために、その「新しいソフト」が十分に機能できないのです。この「新しい人」はすでに完全ですが、私たちの肉体を通して、その完全性が十分に現れないわけです。 このギャップがクリスチャンにとっての諸々の悩み、あるいは葛藤の種になるのです。そしてこのギャップを埋めて下さるのが 神の恵み なのです。(⇒人間の聖書的啓示と現代精神科学)
ただしここで注意すべき点は、私たちは具体的場面において、日々というより時々刻々「肉」を処置する必要があるのですが、決して「肉」と
戦う
べきではないのです。「肉」と戦えば、ますます「肉」は生きてきて、あるいは意識されて、葛藤を深めるでしょう。私たちと「肉」の関係について、聖書は
「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざな情欲や欲望と共に、十字架につけてしまった(完了形)」(ガラテヤ5:24)
と言っています。すなわち、キリストを受け入れた時、
あなた
はすでにあなたの「肉」を十字架に
つけてしまった
のです(完了形)!
あなたにはその実感が無いかもしれませんが、聖書はそう言っています。ですから実はここでも、まずそのことを 信仰によって信じること がポイントです。するとその時、「肉」は御霊によりただちに沈静化されるでしょう(ガラテヤ5:17、ここはロマ書7章の葛藤とは違う。邦訳が悪いのだが、「自分のしたいこと(肉のわざ)が御霊によりできなくなる」の意味。)。