十字架とは



神の愛と義という一見相反するご性質は、神の第二格位の子なる神がイエスの人性を取られて、地上で私たちとまったく同じ人間として生きられ、私たちの身代わりとして十字架で父なる神の裁きを引き受けてくださったことによって、その二律背反性が調和されました。このように私たちの「身代わり」としてのイエスの十字架上の死が一つの側面です。これは主に2000年前における歴史的事実です。
注:十字架の曜日と日付については通常金曜日の午後と言われていますが、これは単なるキリスト教の伝承です。詳細はここでは触れませんが、次のチャートを参照して下さい。ニサン14日の午後、つまり過ぎ越しの小羊がほふられた時間です。
それに対して現在においてイエスを信じる者は神の目においてイエスと同一視される事により、霊的にはイエスと共なる死に与り、よって神の目においてはイエスと共に十字架上で裁かれたことになるのです。このように私たちとイエスとの「同一視」の側面があります。もし第一の面だけでしたら、2000年前のイエスの十字架と現在の私たちは何の関係も持てないことになります。どうして2000年前に生まれてもいなかった私たちがイエスと共に十字架につけられることができるのでしょうか?これは知的理解では分かりません。ただ信じることによってそのような効力が私たちの経験となります。

さて、歴史的事実としてイエスは3日目に復活されました。よって私たちの霊的な主観的経験としては、現在においてもイエスを信じる者もイエスと同一視されることにより、その復活にも与ることができるのです。つまり信じる者はすでに2000年前にイエスと共に裁かれて死に、しかもイエスと共に復活して、神の前で義なる存在とされているのです!このような一見理解し難い効力を十字架は持っております。そしてその効力に与れるのは私たちが信じる時のみなのです。十字架を経ることにより、今までとはまったく違った地平線が見えてきます。まったく違った自分を見い出します。すなわちキリストにある自己、新しく創造された新しいアイデンティティーです!

古い自己にあっては「罪と死の法則」が働いており、その領域ではおのずと罪を犯すのが私たちの実際です。しかし十字架を経てキリストと共なる死とその後の復活の領域に生きる時、新しい自己においては「命と御霊の法則」が働きます。この法則はあたかも「重力の法則」を「飛行の法則」が打ち破るように、「罪と死の法則」を打ち破ることができます。古い自己が罪を犯さないように努力するのはちょうど自分の髪の毛を引っ張って空を飛ぼうとするようなものです。

しかるにこの復活の領域における新しい自己においては、私たちの側の何らの意志的努力も要らないで、自然と神の律法を満足させる生き方が可能となります。この生き方はいわゆる禁欲とか難行苦行では決してありません。きわめて自然で楽な生き方です。あなたは飛行機に乗ったとき、自分の努力で飛行機が落ちないように意志を用いて努力するでしょうか?飛行機恐怖症の人は別として、ただリラックスしてシートにもたれているだけしょう。

このようにイエスの十字架は一面暦史的事実としての側面を持ちますが、霊的には現在の私たちにとってもその効力は及びます。一言で言って古い自己と新しい自己を切り分ける働きがまさに私たちの内側で働く「私の十字架」です(→「罪とは?」参照)。イエスは「わたしに従う者はそれぞれ自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」と言われました。日々この十字架を負うこと、それは私たちクリスチャンの特権です。

十字架を負うことは、文学的表現でよく使われる、自分にとっての宿命的重荷を負うことなどでは決してなく、むしろ死ぬことです。死んだ者にあるのは苦悩でもなく、あがきでもなく、焦りでもなく、労苦でもなく、自己努力でもなく、ただただ安らかな平安と安息です。

その時神が復活の領域において私たちを新しい自己へと生きることを可能としてくださるのです!ここで聖霊の存在が重要になります(→「聖霊とは?」参照)。
(C)唐沢治

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