沖田浩之の自殺に思う
−安住の地はどこに-
■元アイドル歌手で俳優の沖田浩之氏が36歳という若さで自らの命を絶つというショッキングな事件が起きた。見かけからは想像もできない行動であった。内面的には相当に繊細で一本気であったということであるが、幼い娘さんを二人も残しての自殺であった。何が彼をそこまで追い詰めてしまったのであろうか。ここでもやはり安室の母の死について論じたような理由がその根底にあると感じざるを得ない。表向きには借金問題とか、俳優としての悩みだとかの様々の理由があろうが、霊的に見ればこの世の君(サタン)に弄ばれたということである。
■私の知っている範囲でも予備校業界で一躍華やかな人気講師となり、3千万とか5千万とかを稼いで、ベンツだとかポルシェを乗り回していて、いざ人気に陰りがくるや惨めな状態に陥るという例が枚挙に暇がない。いったん人気講師などになると、それまでのその人の人格が一変し、自分を何者かのように錯覚してしまう人々が多い。あたかも天下を取ったかのような振る舞いをする輩も登場するほどであるが、そういう人々に限って一旦屋根の上に持ち上げられて、いざ人気に陰りがさすや、そのはしごを外されて、身の置き所を失ってしまうのである。このようにして最後にはアルコールにおぼれたり、破産者となったりしていく人々を数多く見てきた。
■バブル経済華やかりし頃、いわゆる3K職業なるものは、危険、汚い、きついとか言われて敬遠され、世の中楽な手段で金を稼げないやつは愚かだみたいな価値観が横行し、人々は地道に働くことを軽視して、いわゆる財テクに狂奔した。その結果それまで日本人として持っていた勤勉さ、まじめさ、地道さみたいな徳目は一切排除され、利回り何%などの価値観のみで動く社会構造となってしまった。そしてバブル崩壊と共に、多くの人々がその被害を蒙り、一切を無くし、傷ついて、現在の状態に至っている。今だにその傷跡から立ち直る契機をつかめないで、リストラの圧迫と不安の下で明日を知れずに戦々恐々と日々を生きている。今や日本には徳やモラルなどは失われ、援助交際などが当然のようにまかり通り、人々は生きる支柱、自らの身と心の拠り所を喪失して、行き場を失っているかのようである。そのような中で五木寛之の「他力」などの宗教本がベストセラーとなっているが、私たちクリスチャンから見ると、その「他力」の「他」とは誰のことか、それを曖昧にしておいて、どうしてその「他」に頼ることができるのだろうかと思うのである。何かあるいは誰かを信じる時、その対象がいかなる存在であるかによって、私たちの信仰も実り豊かにもなり、逆に裏切られて、むしろ傷つく結果ともなり得るのである。
■今回の沖田氏の自殺もそのような殺伐とした現在の日本を象徴するかのような事件であった。彼も一旦はスターダムに乗った後、そのまじめさの故にいざ自分を見つめたとき、かえって芸能界にあって自らの居場所を失ってしまったのであろうか。いい年をしてアイドルにもとどまれず、さりとて俳優としての資質にそれほど恵まれているわけでもなく、自分のアイデンティティーを喪失していく不安の中で、精一杯突っ張って生きてきたのが、ついに緊張の糸が切れ、自分を持て余してしまったかのような印象を受ける。自分の身と心の置き所を見出すことが困難になっているのは、何も芸能界に限ったことではない。世の中全体がそのようなムードに覆われている。
■私たちクリスチャンから見ると、バブルの頃は何も考えずにただ踊りを躍らされるような霊的雰囲気に世の中全体が包まれていたのが、ここへ来て金以外のあらゆる価値観を壊されてしまった結果、支えのない拠り所のない霊的雰囲気に変わってきている。この社会を包む時々で移ろい行く「霊的雰囲気」がまさにサタンの得意の演出であって、時に華やかに、時に陰鬱に私たちに迫ってくるのである。このような有様を聖書では「この世」と表現しているが、アニミズム的レベルにとどまって真の霊的知識と対処法を知らない日本人はまさにサタンの演出の下で彼の思うが侭に振り回されている感じである。現代の日本の諸問題を解決し得るのは経済学とか政治などではなく、この霊的なレベルにおける根本的な対処による以外にないのである。そしてそれができるのは私たちの主イエス・キリストの十字架と血潮だけである。サタンを封じ込め、彼の仕業を無能力化することができるパワーはただイエスにのみ存在している。私たちが自分自身と自分の人生を100%委ね切り、永遠の「安住の地」とし得る「他」とは、まさにこのお方に他ならない。(1999.03.31)