神の対応とは
神のご性質はまず愛です。そして義です。愛と義とは一見相矛盾する性質を持ちます。アダムとエバは神の命に逆らって罪を犯しました。この罪に対して神は何らかの処置を取らねばならなくなったのです。
神の義からすれば、神の命に逆らった以上、当然の事ながら彼らを処罰する必要があります。もしそうしなかったならば、神は悪を見逃す事によってご自分が不義とされてしまい、正義を失った宇宙の秩序は崩壊するでしょう。しかし神は人を愛しておりますから、彼らを罰する事は神にとって忍びない事であって、できるならば彼らを赦したいのです。ここからある種の神の葛藤が開始されたのです。
神は罪を犯したアダムとエバに彼らが刈り取るべきその罪の実を宣告されて後、彼らを命の木から隔離してエデンの園から追放しました。ところがここに人に対する神の興味深い配慮がありました。つまり神は人に皮の衣を作って着せられたのです。これは何を意味するのでしょうか?
ところで神によるその処置の前に、実はアダムとエバは罪を犯して良心に目覚め、自分たちの裸であることに気がついて、イチジクの葉で自らの恥部を覆い隠しました。しかしそのような自前の取り繕いによる隠蔽は実は神の前で何の役にも立たないものであったのです。なぜなら罪を犯したならば、必ず死をもって償わなくてならないからです。
さて皮で衣を作るためには当然に動物が殺されなくてはなりません。その時には血が流されます。実は神が彼らを動物の皮で覆われた事は、後にイエスが神の小羊として私たちの身代わりとして私たちの罪を十字架で負い、無垢な血を流して死なれ、その結果イエスを信じる者がその罪を赦されて、信仰によって神のみ前で義とされること、すなわち自分の行いによる義ではなく、イエスの義を着せていただけることの予表(予型・タイプ=あらかじめ例証すること)であったのです。この時点で既に神は救いのご計画を啓示されたのです。
また神はエバをそそのかした蛇に対して、「お前は呪われて地を這うことになり、お前と女との間に、またお前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、お前の頭を踏み砕き、お前は彼のかかとにかみつく」と宣告されました。蛇はサタン(悪魔)を意味しますから、悪魔とこの「女のすえ(単数形)」の間には敵意に基づいた葛藤が存在することが宣告されました。悪魔は彼のかかとに噛み付きますが、彼によって悪魔は頭を砕かれます。つまり悪魔は彼に些細な傷を与えますが、反対に彼によって致命傷を受けるのです。
まさにこの「女のすえ」こそ、処女マリアから生まれたイエスその人に他なりません。悪魔が大衆を扇動してイエスを十字架に付けた時、それは悪魔の勝利かのように見えましたが、実はイエスは死から復活され、悪魔の力である死を克服して、悪魔に対する決定的勝利を得ました。十字架において悪魔はイエスの「かかと」に噛み付き、イエスは悪魔の「頭」を砕いたのです。そしてイエスはご自分を「私は命に至る道である」と宣言され、一旦は遮断された命の木の実(永遠の命)を信じて義とされた者対しては心置きなく提供することができる道を、ご自身の肉体を裂くことによって用意されたのです。
神の愛と義という一見相反するご性質は、神の第二格位の子なる神がイエスの人性を取られて、地上で私たちとまったく同じ人間として生きられ、私たちの身代わりとして十字架で父なる神の裁きを引き受けてくださったことにより、十字架にあってその葛藤が解消されたわけです。神は愛であることと義であることがまさに十字架上のイエスにあって証明されたのです。
(C)唐沢治