Q1.古き人と肉の関係について 



「古き人」と「肉」の関係について質問があります。ローマ6:6によれば、「わたしたちの古き人が十字架につけられた」と受け身で書かれ、肉に関してはガラテヤ5:24で「自分の肉を、…十字架につけてしまった」と私たちの行為として書かれています。「古き人」は殺されたもの、「肉」は殺すべきもの、と理解して良いのでしょうか。もしそうだとすると、「肉」を殺したクリスチャンと殺していないクリスチャンがいるということになります。

また、あの「四つの法則」で、キリストを王座に迎え、私自身が跪いているイラストがありますが、古き人が殺されてしまえば跪くも何もないように思います。また、いろんな牧師のメッセージでは、クリスチャンが心の中で、今でもキリストと王座を奪い合っているような印象を受けます。あのイラストは間違っていると考えて良いのでしょうか。先生のご意見をお聞かせ下さい。



 A1. Dr.Lukeによる回答 



とても本質的で大切な論点ですので、少し詳細に論じます。この部分を誤解されたり、不十分な理解で留まると、「肉」を自分と同一視して、「肉」と戦ったりして、不要な葛藤や悩みを抱えるケースが多いのです。

1.」は「古き人=アダムにあって得た神から独立した私」の生き方のパタンが大脳と中枢神経系に条件付けされたもので、きわめて心理学的なものです。2000年前の事実として「古き人」はイエスと共に十字架において死に渡されましたが(イエスによるわざ)、「肉」は私たちがすでに情と欲と共に十字架につけてしまったとあります(私たちのわざor経験)。これはイエスの十字架の客観的御業の、信仰による私たちの側での主観的な適用と言えます。

2.確かに私たちは依然として経験上、「肉」がうずき、罪も犯します。これは肉体と魂における種々の欲求のためです。この欲求自体は罪ではありませんが、この欲求を神から独立して満たす試みが「肉のしわざ」です。つまりここで言う「肉」とは何か物質的な存在ではなく、御霊に頼ることをしない神から独立した私たちの考え方・感じ方・意思決定・振る舞いの「パタン」なのです。

3.特に「肉」と戦うとますますうずきます。具体的には体と魂の欲求が強く意識されてきます。これは「精神交互作用」によります。クリスチャンになった後も「肉」には慣性があるからです。それはけっこう頑固なものです。特に聖霊の照明がない領域においてはこの慣性が働いて、かつての「古き人」のパタンどおりに振舞ってしまうわけです。その時、自分が「肉」に従っていることすら分かりません(特に善の領域において)。私たちは「肉」において善行をもなし得るのです!アダムとエバの罪は「悪を知ったこと」ではなく、「善と悪を知ったこと」です。ここで「肉を十字架につけた」という場合、物質的な何かを存在論的に消滅したという意味ではなく、「肉=古い生き方のパタン(善も悪も含めて)」との関係性が切れた、という意味です。そのパタンを自分の力で矯正したり、改善したり、戦ったりする責任がないという意味です。そこでパウロは「私たちは肉に従って歩む責任を肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によってからだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです」(ロマ8:12,13)と言っております。ここで体の欲求を静めるのは御霊であるとあります。肉体と魂の欲求・必要を満たすのに、「内住の罪」に支配権を委ねて、「肉」に従ってするのか、御霊に支配権を委ねて、神の方法に従ってするのかの選択の自由が私たちにはあります。自由意志は神も侵すことができません。

4.そこでパウロ自身もロマ7章の葛藤を経た後、ついに「キリストのゆえに神に感謝する」と言いながら、「ですから、この私は心(原語:思い)では神の律法に仕え、肉では罪の律法(法則)に仕えている」(ロマ7:25)と告白し、「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ロマ8:1)と言います。この接続詞を見ると、ちぐはぐな感じを受けますが、これがイエスのなして下さった十字架の客観的業と、それの私たちにおける主観的適用・経験とのギャップを物語ります。このギャップを埋めて下さるのが神の恵みなのです。私たちは体が贖われていない現状では、「内住の罪」があるために、「肉」においてはロマ書を書いた時点のパウロですら、罪の法則に仕えているのです!もっと言いますと、私たちは自分が「肉」に従う時に罪を犯すことを何等恐れる必要はないのです。肉においてはそれが当たり前だからです(誤解のないように、「罪を犯してもよい」のではありません:ロマ6:1,2)。しかし「罪に定められることがない」のです。

5.しかもパウロは「したくないことをしているのは私ではなく、罪である」(ロマ7:17)と言っています。それは「私ではない」のです、罪なのです!その罪の行為自体の成立は罪に責任があります。私たちが御霊に頼らず、体と魂の欲するままに振舞うとき、「内住の罪」に従って罪を犯すのが当たり前です。すなわちそれは「肉」の磔刑の適用をし損なうとき、その特定の領域においては「内住の罪」に支配権を渡してしまうからです。ここに支配権を誰に渡すべきかという自由意志の問題があるのです。これが私たちの責任です。自分の実印を他人に預けた時、その人が借金を作ったとします。借金を作ったのはその人であるのですが、私は実印を預けたという責任が生じるのです。そこでパウロは具体的処方箋として「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者と思いなさい(原語は会計用語の貸借対照表の「勘定をする」の意味)。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはなりません」(ロマ6:11,12)と勧めます。「からだを罪にゆだねない」、これが私たちの神の御前での責任なのです。

6.結局、私たちは「肉(古い生き方のパタン)」に従って生きるのか(当然「罪と死の法則」に支配権を委ねることになります)、それとも御霊に従って生きるのか(当然「いのちと御霊の法則」に支配権を委ねることになります)の選択を、自分の自由意志によって絶えず決定しつつ、現在を生きているわけです(ロマ8:4,5,6)。信仰によって御霊に頼って生きることが習慣化し、新しい条件付けとなるとき、イエスの生き方(思い・感情・意志・行為)が私たちの内に追体験されることになります。霊において御霊によって臨在されるイエスのパースンが、私たちの魂の領域においても再構成され、形作られることになります(ガラテヤ4:19)。ただし聖霊は決して私たちの自由意志を損なうことはありませんから、私たちが自分の意志で「肉」を経験的に捨てた領域においてのみ働くことができるわけです。こうして明渡せば明渡すほど、御霊が主権を取れる領域が拡大し、「私はキリストと共に十字架につけられました。今や生きているのは私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる。いま私がこの世において生きているのは、・・・神の御子を信じる信仰による」(ガラテヤ2:20)となります。かつては私が主人公でしたが、ここでは私は傍観者的にイエスに対する信仰(信頼)によって生きる立場になります。こうして私たちが古い生き方を意志をもって放棄すればするほど、御霊の支配される恵みの領域が私たちのうちで拡大していくわけです。

7.客観的な十字架の事実は完璧です、が、その適用あるいは主観的経験は私たちの自由意志と信仰にかかっています。この意味で誰が王座に座るかが問われるのです。キリストは客観的に王の王であり、動かない事実・真理です。しかしその適用においては、私が主となるのか(偽り)、キリストが主となるのか(真理)が、私たちの主観的経験において問われるのです。私たちに自由意志があり、神は決してそれを侵されないからです。そこで私たちは意志を用いて、イエスを主とする、すなわち御霊に頼る生き方を選んでいく必要があるわけです。空を飛ぶには飛行機に乗る必要があり、一旦自由意志で乗り込めば、後は法則が働きます。飛行機の中で自分の髪の毛を引っ張る人はいません。いのち御霊の法則も同様です(ロマ8:2)。この意味で受動性になってはいけないのです。2輪車に乗り始めた頃は、よくころびます。法則に乗れていないからです。慣れれば2輪車に乗ることはいとも簡単であって、法則に身をゆだねるだけの簡単なことです。手放しすらできるようになります。霊的な法則の場合も同様です。意志を用いて法則に乗ればよいのです。何と単純でしょう!

8.長くなりましたが、聖書は、客観的な事実あるいは法則と、私たちの側の信仰によるその適用あるいは主観的経験を区別して行かないと混乱してしまう部分があります。シェマティクには<客観的事実・真理→私たちの自由意志・信仰→主観的適用・経験>となるかと思います。自由意志による信仰こそが客観的事実を私たちの内で主観的に実体化(substanciation)するわけです(ヘブル11:1、ダービー訳)。




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