私には自分のしていることが分かりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく,自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているからです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪です。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行っていないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているですが、その私に悪が入っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだ(肢体)の中には異なった律法(法則)があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私をからだの中にある罪の律法(法則)のとりこにしているのを見出すのです(ローマ書7:15-23)。
律法を守り、善をなそうとすればするほど、それと逆になってしまうこの内的葛藤は、クリスチャンであれば誰もが経験するものであり、あまりに極端になると救いの事実自体をも疑ってしまうほどになります。精神病理学的には「精神交互作用」と呼ばれており(注)、何かをしよう/しないとすればするほど、逆の方向になってしまう精神病理です。不眠症の人は眠ろうとすればするほど、時計の音が気になって眠れなくなります。それと本質的には同様の魂の法則です。ただしここで大切なことは、この葛藤は異なった法則の間のものであって、ガラテヤ5章の霊と肉の葛藤ではありません。私たちの思いには神の律法を守りたい、善をしたいという法則がありますが、体にある罪と死の法則が戦いをいどんでいるのです。つまり「神の律法」と「思いの法則」と「罪と死の法則」が絡み合って葛藤しているのです。
「精神交互作用」という病理は、精神病理学者によって20世紀に発見されましたが、実は1世紀において、パウロはすでにこの病理を法則として見出しておりました。そしてその原因を「内に住む罪」と表現しております。確かに私たちのうちにはそのような罪を犯させる何かの力が住んでいることを経験的に知っております。パウロはそれが体(肢体)のうちに法則として存在していると言います。私たちの体には、罪を犯すという法則が存在するのです。
(注)「精神交互作用」という病理は、森田療法の創始者、森田正馬が発見しましたが、すでに中国の古い禅語にも「向かわんと擬すれば、すなわち背く」とか「煩悩の犬、負えども払えず」などの表現があります。また有名な精神分析家カール・メーニンジャーは「おのれに背くもの」という本を書いております。またアウグスチヌスもその「告白」において、「魂が魂に命令するとたちまち反抗されてしまう」と告白し、これは奇怪なことである、と述べております。
ただし、ここで注意して欲しいのは、この体は私自身ではありません。それは物理的な存在であって,あくまでも私は霊的な存在であるのです。体は私を入れる器(パウロは幕屋と呼んでいます)に過ぎないのです。そしてそのうちに住む罪も私ではありません。パウロは言います、「私ではなく、私のうちに住む罪です」と。では罪を犯すことについて、私たちの自由意志と責任はどうなるのでしょうか。パウロは言います、
このように、あなたがたも、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはなりません(ローマ書6:11,12)。
ここの「思いなさい」は原語では会計学の用語であって、貸借対照表の数字の「勘定をする」ことです。すなわち、私たちが勝手に何かを思い込むことではなく、事実を事実として認知することです。私たちはすでに「罪に対して死んで、キリストにあって生きている」のです。そこで私たちの責任は、この事実を認めて信じることをしない時、体の内に住む罪に体の支配権を渡してしまうことにあります。一旦渡ししてしまうならば、内に住む罪は私たちの体の嗜好を刺激して、様々な行為によって私たちに罪(神の基準からの逸脱)を犯させるでしょう。それが体の中にある「罪の法則」です。
では,私たちはどうしたら、この「内なる罪」から解かれるのでしょうか?難行苦行によるのでしょうか?違います、ただ信仰によります。すなわち、キリストが十字架で私と罪の関係をすでに破棄して下さっているからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて(無力となり)、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私は知っています(ローマ6:6)
ここで「滅びて」あるいは「無力となり」と訳された原語は"καταργεω"であって、それは「運営不能、無効力」の意味であり、存在論的に無くしてしまうことではありません。私たちの体はいぜんとして存在します。以前は「古い私」が罪の命じる通りに体を用いて罪を犯させていたのですが、その罪と体を媒介する「古い私」が十字架につけられてしまったのです。ですから罪のあやつり人形であった体は、「古い私」という糸が切れてしまって、罪との関係において、罪からみて体は私たちの意志の同意がない限り「操作不能」となったのです。
これが神による罪の問題の対処法でした。神は「内なる罪」そのものを存在論的に抹殺されませんでした。それはいぜんとして私の肢体のうちにあります。しかし「古い私」が十字架につけられたことを信仰によって認めるとき、その罪は私の意志の同意がなければ、私の体を利用できないのです。
現在キリストに対する信仰によって生きている「私」は、体を罪の支配に委ねるか、それとも御霊に頼って義の奴隷として神に捧げるかの選択の自由があるのです。私たちの肉体の一部である大脳と中枢神経系には、これまでの生き方のパターンがプログラミングされています。それは条件反射的に私たちの感情や思い、さらに意志をある方向へと導きます。これが「肉」です(「肉」と「古い私」は違います)。
このような大脳に焼き込まれた古いプログラムをクリアーするのは、私の責任です(注)。あなたに代わって誰もコンピュータ−のリセットスイッチを押してはくれません。私がこの「肉」を日々十字架につけて(ガラテヤ5:24)、信仰によって「御霊によって体の行いを殺す」(ローマ8:13)とき、「内なる罪」に体を委ねることなく、神の基準を生きることができるのです。
(注)心理学的には「脱感作 (Deprograming)」とか「再条件付け(Recoditioning)」と言われます。人はある行為を何回か繰り返すならば、それは習慣となります。その習慣の積み重ねが人となりを決め、人生の年輪を形成します。ただし、ここで注意すべき点は、私たちは「肉」と戦うのではありません。戦えばむしろ「肉」を刺激して、ますます「肉」が活発になります。聖書には「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざな情欲や欲望と共に、十字架につけてしまった(完了形)」(ガラテヤ5:24)とあります。キリストを受け入れた時あなたはすでにあなたの「肉」を十字架につけてしまったのです(完了形)!あなたにはその実感が無いかもしれませんが、聖書はそう言っています。ですから実はここでもそのことを信仰によって信じることがポイントです。
神の基準を生きるのは,私の意志の努力によりません。それは不可能です。ただ「古い私」はすでにキリストと共に十字架につけられたことを認め、かつ信じるとき、「罪と死の法則」が無効とされ、新しい「命の御霊の法則」が作動し、神の基準のレベルで生きることができるのです。法則に対しては法則によって対応します。自分の意志の力とか自己努力は無意味です。自分の髪を引っ張って空を飛べないように、重力に打ち勝つには飛行の法則を適用するのです。重力の法則はそこにありますが、飛行の法則がそれを無効にするのであって、実はそれはとても簡単で楽な生き方です(→「十字架とは?」)。そして来るべき「体の贖い」において、最終的に「内なる罪」は取り除かれるでしょう。それまでは私たちの生き方は私たちの選択の自由に任されているのです。自由意志は神の前での厳粛な事実です。