・父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます(ヨハネ5:21)。
・父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにして下さったからです(ヨハネ5:26)。
・わたしの父は天からまことのパンをお与えになります。というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです(ヨハネ6:32,33)。
・わたしがいのちのパンです(ヨハネ6:35)。
これらの事実の言明としてのイエスの「ことば」は何と荒唐無稽なものでしょうか。実際弟子たちの多くは、これらのことばにつまづいて、「ひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか」とイエスをなじりました。反対にイエスは、ユダヤ人たちに対して「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しています。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」(ヨハネ5:39,40)と批難しました。ユダヤ人たちはイエスというパースンと切り離して、聖書をあたかも六法全書を取り扱うかのように研究していたのです。その聖書はイエス御自身について証しされているのにも関わらず、当のイエス御自身を拒否してしまうのです。
すなわちユダヤ人たちが扱っていた「言葉」は、いのちの本体の抜けた、外側の殻だけだったのです。電気がチャージされていない電池の殻を後生大事に研究していたわけです。もちろん電池の成り立ちを知ることは重要ですが、それだけでは電池の意味がありません。電池の意義はその内にある電気にあるのです!そしてしばしば私たちもこのような経験をします。いのちであるキリストをそっちのけにして、聖書の解釈や神学の論争を繰り広げる時や、聖書を使って他のクリスチャンを裁いたりする時、私たちはいのちの抜けた殻を振り回しているのです。
いのちを持っておられる唯一のお方はイエスです。そのイエスからすべてを受けて、私たちの霊の内でイエスのことばとパースンを証しし、充電されていたいのちを解放してくださるお方は聖霊です。私たちが御言葉を内に豊かに住まわせる時、時に応じて聖霊はその中の特定の言葉を取り上げ、ことばとして語って下さいます。そのことばが私たちにとってのいのちとなるのです。聖書自体は白黒の文字であり、単なる記号の羅列です。しかしその記号には意味があり、神の意志が反映されています。そしてその記号としての言葉が、聖霊によって私たちの霊において語られるとき、そのうちにあるいのちが解き放たれるのです!
イエスは祈られました:
父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです(ヨハネ17:1−3)。
イエスの栄光(注1)とはもちろん十字架でした。その十字架においてイエスは御自身の肉を裂き、罪のない血を流して、御自身のうちに蓄えられていたいのちを解放して下さったのです。現在、そのいのちは御霊が私たちのうちに伝達してくださいます。客観的な聖書の言葉は主観的な御霊による油塗りによって、私たちのうちにおいていのちとして輝くのです。客観的にキリストについて知り、さらに御霊によってその方を内的いのちとして知ること、これがクリスチャン信仰の目的です(注2)。そのいのちは私たちの自己の殻(魂)が破られる時、その傷を通して流れ出て、他の人々にもそのいのちを伝達することができます(→「死と復活の原則について」)。私たちクリスチャンが、この内なるいのちを自分のうちにだけに留めることのないように祈ります。
(注1)「栄光」とは何かを反映すること、輝かし出すことです。イエスの栄光、すなわち十字架とは、目に見えない神のいのちを解き放つことだったのです。
(注2)ギリシャ語では「知る」という場合、客観的に知ることをginosko、主観的に知ることをoidaと区別しています。私たちはキリストをginoskoするばかりでなく、oidaする必要があるわけです。