(注)ここの訳については J.N.Darby 訳がもっとも適切であると思います。彼はここで "Now, faith is [the] substantiating of things hoped for, [the] conviction of things not seen" と訳しております。 " substantiating " とは" 実体化すること "と言えます。一応和訳しておきますと、「さて、信仰とは願うものを実体化すること、目に見えないことを確証すること」となるでしょうか。信仰はまだ得ていないものや目に見えないことを実体化するのです。すなわち「すでに得た」と告白することなのです。私はこれを「 客観的事実+信仰=主観的経験 」と定式化しています。
次に大切なことは、
不信仰
と
疑い
の違いです。私たちは祈り出して間もない時には、本当に神はしてくださるのだろうか、と確信を得ません。これが不信仰です。しかし一旦信仰の瞬間を経て、得たと分かった後、実際にそれを手にするまでは時間のラグがあります。この間が
試みの時
と呼ばれます。私はすでに知っているのです:すでに得た、と。しかし現実にはなかなかそうなりません。その待ちの時間はどの位の長さかは分かりません。神のみぞ知る、です。この期間が長くなればなるほど、私たちは疑いの念が浮かぶようになります。
しかし注意して下さい。
それは不信仰ではないのです。
不信仰は罪ですが、
疑い(試み)は罪ではありません!
イエスでさえ私たちとまったく同様に試みられたのですが、罪は犯されませでした(ヘブル4:15)。そのような疑いは私たちの
肉
から生じたり、あるいは
敵
が私たちの思いのうちに撒いたものです。直ちにイエスの
御名
によって、
御言葉
を宣言して、その疑いを拒絶すればよいのです。そして
イエスの血
による覆いによって敵を遮断しましょう。
信仰を得ていれば、必ずその通りになります。
神は真実です。私たちの不誠実が神の真実を無にすることはできないのです(ローマ3:3)。
希望は将来の事柄です。
例えば主は必ず戻って来られます。これは私たちの大いなる希望です。
信仰は現在の事柄です。
私たちは目の前には存在していなくてもすでに得たと知るのです。
そしてそれは
真理
です。目の前の状況は
事実
です。
事実はいずれ真理に服するようになります。
忍耐して信仰によってそれを得ましょう。かつての偉人はみな信仰によって神から良き物を得たのです(ヘブル11章)。すでに私たちのために十字架で血が流され、私たちの罪は赦され、病は癒され、キリストの貧しさによって富む者とされているのです。
真理と事実のギャップを埋めるのが私たちの信仰であり、神の恵みです。信仰によって待ち望めば、事実は必ず真理に服するのです!