至聖所について
モーセは出エジプトした後、神から幕屋の設計図を受けました。この幕屋は荒野をさまようヘブル人が、キャンプする際の生活の中心となり、ここで祭司や大祭司が神に仕え、罪のための犠牲の動物を屠ったりして、神と人が出会う場所でした。新約のヘブル書6:23−24ではこの幕屋について、「天にあるものにかたどったものは、これらのものによって清められる必要がありました。しかし天にあるもの自体は、これよりもはるかにまさったいけにえできよめられなければなりません。キリストは、本物の模型に過ぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです」と言っております。つまり幕屋とは天にある実際のものの模型であったのです。この構造は次の通りです。後の時代のソロモンなどの神殿の構造も基本的にはこれと同一です。
幕屋を入ると外庭があり、まず青銅の祭壇があります。ここでは犠牲の動物が激しい火で焼かれました。次に水をたたえた洗盤があり、これを過ぎると第1の幕があって、その中は聖所でした。ここには燭台と備えのパンの机、そして金の香壇がありました。祭司たちはこの中で神に対して民の罪の赦しを祈り求めていました。
さらにその奥には第2の幕で区切られて至聖所がありました。この中には契約の箱があり、その箱は金で造られており、ケルビムがその上を被い、その中には、律法の石版、マナの入った金の壷、芽をふいたアロンの杖が入っていました。至聖所には年に1度大祭司が犠牲の動物の血を携えてその内に入ることができました。
旧約時代には、この模型である幕屋あるいは神殿において、祭司たちと大祭司が民の罪のための贖いの儀式に携わっていたわけですが、これはすべて本物(キリストの職責)の影であるとヘブル書の記者は語ります。すなわち、目に見えない霊的な事実を、分かり易く、いわば絵本のように目に見える形で提示するのです。
ブラザレン系の学者の解釈によりますと、幕屋あるいは神殿の3部構造は、人の3部構造と対応しており、外庭−体、聖所−魂、至聖所−霊、という対応があるとします。神の御臨在がある場所は至聖所であって、旧約時代には年に1度大祭司のみが動物の血を携えてこの中に入ることができたのです。ところが人の罪を取り除くまことの犠牲の供え物として、神の子羊イエスが来られ、十字架にかかられた時、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」とあります(マタイ27:51)。
またヘブル書を見ますと、「キリストは模型で幕屋の中ではなく、本物の天の幕屋にご自身の血を携えて入られ、ただ一度の贖いを成し遂げられた」とあります(ヘブル7:27−9章)。さらに、「わたしたちは、イエスの血によって、まことの[至]聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちためにこの新しい生ける道を設けて下さった」とあります(ヘブル10:20;Darby訳)。つまりイエスはご自身の血によって、私たちが私たちの霊(至聖所)において、直接的に神にお目にかかることができるように、ご自身の肉体の幕を裂いて生ける神への道を開いて下さったというわけです。
幕屋の外庭では様々な儀式行為がなされます。罪のための犠牲の動物を焼いたり、罪の洗いのための洗盤があったりするわけですが、それは主に体の行いと関係があります。聖所においては燭台によって光がともり、またパンが用意されておりますが、これは私たちの魂において聖霊のともされる命の光と養いを象徴します。また金の香壇は、神の御前に立ち上る祈り(香り)を意味します。大祭司はこの香壇から香を取って、血と共に至聖所に入り、民のための贖いの儀式をなしました(レビ16:12)。
一方新約になると、ヘブル書ではこの香壇がすでに至聖所にあると記述されています(ヘブル9:4)。私たちの聖所である魂(知性)から始まる祈り(1コリント14:15)は、神への香りとして聖霊の導きで、徐々に至聖所である霊にまで及びます。至聖所においてこそ神とまみえることができるのですが、新約のヘブル書ではすでに至聖所に香壇が置かれているのです。これはイエスが聖所と至聖所をへだてる幕を裂いて下さったからに他なりません。私たちは霊において、異言などにより霊の祈りを捧げることができ、その祈りは香りとして立ち上り、直接に神の御座に届くのです。それは五感を超えたスーパーナチュラルな領域の経験であり、また天が地に介入すること、永遠が<今・ここ>に切り込む経験です。
こうしてイエスが天の至聖所への生ける真の道を、その前にある垂れ幕をご自分の肉体を裂くことにより、開いて下さった結果、私たちは直接に、自分の霊において神とまみえることができ、私たちの祈りも直接に神の御座に届くのです。私たちはこの道を通って、大胆に至聖所に入り(ヘブル10:19)、神の御座において祈りを捧げ、恵みをいただいて、時期を得た助けを受けることができるのです(ヘブル4:16)。しかもその天の真の至聖所には、私たちの弱さを思いやって下さるイエスが、大祭司としてすでに入って下さっており、私たちのためのとりなしのわざをして下さっているのです(ヘブル4:15、6:20)。ご自身の血でただ一度の贖いを成し遂げて下さったイエスは、永遠に変わることのない祭司職をまっとうされ、ご自分によって神に近づく者を完全に救うことがおできになります(ヘブル7:24、25)。
私たちが真に神とまみえ、神に祈りを捧げ、神の言葉を聞くことができる場所は至聖所、すなわち私たちの霊の中です。肉体(外庭)の行いから、さらに魂(聖所)における様々な経験を経て、ついには霊(至聖所)の中へと聖霊は導いて下さいます。そこにこそ神の御臨在が満ちております。そこには私たちと同様の肉体を取られ、私たちと全く同じ試みを受け、神への完全なる犠牲の供え物として屠られたイエスが、メルキゼデクに勝る大祭司として、つねに私たちのためにとりなしていて下さいます。そして永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことをわたしたちのうちに行ない、私たちがみこころにかなうことを行うことができるように、すべての良いことについて、私たちを完全な者として下さるのです(ヘブル13:20)。何という励ましでしょう!