祭司制と律法について


クリスチャンと(旧約)律法の関わりに関しては別のスレッドで述べていますが、神の御心は律法にあるのではなく、アブラハムに対して与えられた約束にありました。この約束はひとりの子孫(単数形)に向けてなされたものであり、これはすなわちキリストです(ガラテヤ3:16)。この約束は律法が与えられる430年前に与えられたものであり、その当時アブラハムはもちろん割礼も受けておりませんし、律法もありませんでした(同3:17)。ですから彼は律法を行って義とされたのではなく、信じたからとされたのです(ガラテヤ3:6;ローマ4:12)。

つまり旧約の律法は付加的なものであり、約束の子孫(キリスト)が現れるまでの養育係であり、違反を示す(私たちの内にある罪を示す)ために与えられたものでした(同3:19,24;ローマ7:8)。もちろん律法は聖であり、正しいものです(ローマ7:12)。しかしこの律法はアブラハムへの約束を無効にすることはなく、むしろ約束の方が優先するのです(同3:17→「教会とイスラエルの関係について」参照)。

今や約束の子孫が現れた以上、私たちはその養育係である律法の下から解放されたのです(ガラテヤ3:25)。これは私たちが律法に対して死ぬことによります。死んだものは過酷な要求をする夫から解かれたのです(ローマ7:4,6)。私たちはもはや律法の下にはおりません。この律法は私たちに神の標準を生きさせてくださるいのちを与えないために不完全なのです(ガラテヤ3:21)。私たちのが無力なために、それをなし得ないのです(ローマ8:3)。

元々の神のご計画は、私たちをいのちの木の路線上に戻し、私たちのうちにご自身のいのちZoe)を吹き込むことにありました(cf.ヨハネ20:22)。律法はあくまでも善悪を知る知識の木の路線上で与えられたものに過ぎません。仮に旧約律法を100%守ったとしても、いのちを得ることができません(ガラテヤ3:21)。鍵はいのちにあることを注意してください。

ではクリスチャンは自分勝手ができるか、放縦に落ちることができるかというと、そうではありません。むしろ逆です(ローマ6:1-2)。なぜなら神は石の板に書かれた律法ではなく、私たちの心に書かれた律法を与えたからです(ヘブル10:16;エレミヤ31:33)。私たちは罪に定めるだけの、肉に関わる規定である古い律法から解放されています。が、心に書かれた完全な律法、自由の律法のもとにあります(ヤコブ1:25)。

この律法(Law)はいのちの律法であり、別名いのちの御霊の法則The law of the Spirit of Life)と呼ばれます(ローマ8:2)。この法則に乗る時、罪と死の法則から解かれて、私たちはまことの自由を享受します。この法則は旧約の律法よりもはるかに優れた律法であり、その標準を生きることが可能となるいのちを与えることができるのです。すなわち内なるキリストです。そしてこれはただ信仰によります。かくして信仰によってこの法則を生きる時、旧約の律法はもちろんのこと、私たちの義は律法学者の義を超え、私たちは信仰によって律法を全うするのです(マタイ5:20;ローマ3:31;8:4)。

このようなことが可能となったのは、祭司系が変えられたからです。それによっていのちを与えない古い律法は破棄されました。かつて祭司はレビ系のものでした。しかし今やキリストがメルキデク系の大祭司として立てられました(ヘブル6:20)。これは古い律法によったのではなく、いのちの力によりました(ヘブル7:16)。キリストは自ら律法を全うするいのちの力を持っておられ、ご自身がいのちを与える霊として(1コリント15:45)、そのいのちを私たちに分与して下さったのです。私たちのうちにはキリストが生きていてくださいます(ガラテヤ2:20)。この方こそメルキデク系の祭司制度にふさわしい律法の実体であり(ヘブル10:1)、私たちの義であり(1コリント1:30)、私たちのいのちの原動力であり(コロサイ1:29)、この方が私たちに神の標準を生きさせて下さるのです。

祭司制度が変わる時、律法も変えられるのです(ヘブル7:12)。レビ系の祭司制度では人々は完全とされませんでした(ヘブル7:11)。よってその下にある律法は何も成し遂げませんでした(ヘブル7:18,19)。しかし私たちははるかに優れた希望を持っています。それはメルキゼデク系の大祭司、いのちを持たれ、いのちを下さるキリストです(ヘブル7:19)。私たちはこの方によって神に近づくことができるのです(同)。この方はすでにご自身のを携えて天の真の至聖所に入っておられます(ヘブル9:25)。契約の箱の贖いの蓋(宥めの蓋)にはすでに血が流れています。神はこの血によって満足されています。よって私たちは大胆に至聖所に入ることができるのです(ヘブル10:19)。そのために生ける道が開かれているのです(ヘブル10:20)。イエスこそ真理いのちです。

かくして私たちも祭司の体系とされ(原語;1ペテロ2:9)、祭司の特権である犠牲の動物を食べることができ、この肉に触れる者はみな聖とされます(レビ6:26,27;ヨハネ6:53)。これはもちろんほふられた神の子羊キリストです(ヨハネ1:29;黙示録5:6)。こうして自体であるキリストを捧げ、キリストの血と肉に与る時、私たちはいのちを得、このいのちが内側から生き出てくださる時、神の新しい律法を自動的に全うしているのです。旧約を新約を致命的に分かるカギは祭司制度と律法の変更です(⇒捧げ物について)。すなわち善悪の木の路線からいのちの木の路線への回復(⇒教会とイスラエルの関係について)。ここに私たちが勝利する鍵があります。ハレルヤ!


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