預言の霊的機序

リバイバル新聞2003年5月25日号掲載記事原稿


一部で小生が賜物を否定すると思われる向きがあるようだが、小生は御言葉はそのままに受け入れる者である。問題はその内実である。本稿では預言の霊的機序を明らかにしたい。

霊的真理や実行にはコインのように二面性、すなわち本質面と経綸(機能)面がある。預言御霊と人の霊との関わり方と密接に関連し、その実行では人の霊に関する霊的知識と旧新約の相違を十分に理解する必要がある。


御霊の関わりの二面性

すでに論説でも述べたが、御霊の関わり方は旧新約で決定的な相違がある。旧約では御霊は人の上に(upon)、その職務の遂行のために経綸的かつ機能的に臨んだ。新約では内的ないのちとして内住される(in)。旧約では神の霊はある意味で単に神の霊であったが、新約では人なるイエスの霊に住み人間性を経験した霊として、イエスのパースンとわざを証しする霊として下った。よって聖霊は「イエスの御霊」、「キリストの御霊」と呼ばれる。

旧約では神は預言者たちに部分に分けて語ったが、新約では御子にあってすでに語った。そして御子、すなわちロゴスはすべての信者のうちにある。よって神はモーセやエリヤではなく「これ(イエス)に聞け」と言われる。この塗り油(原語)がすべてを教えるから誰からも教えてもらう必要はない。それぞれが直接に主を知るゆえに、互いに主を知れと言って教える必要もない。あちこちの"預言者"の託宣(oracle)を求めてさ迷う必要はない。では新約の預言とは何か?


預言の本質面と経綸面

新約の預言の本質的機能はキリストの体の建て上げである。エバがアダムのあばら骨から建て上げられた(buid up;原語)ように、私たち教会もキリストの息(いのち)を吹き込まれ、御言葉が内的に組織されて建て上げられる。このいのちの発生分化の過程を"霊的代謝"あるいは"メタモルフォーシス"と呼ぶ。イエスが「わたしが話したことば(レーマ)は霊であり、いのちである」と言われたとおり、預言の本質的機能はいのちなることば(レーマ)を解き放つことである。

これに対して、例えば隠れた真実を指摘したり、将来の事を知らせたり、勧告や警告の言葉、知恵や知識の言葉を与えることは機能的預言である。これは神の計画を進展させる経綸的機能を果たす。


預言の霊の見極め

預言(特に本質面)は語る人の人間性と切り離せない。預言の霊はイエスの証しである。これはイエスに"ついて"の証ではなく、イエスの"パースンそのもの"である。外来性の神の言葉を預って語るのではなく、御霊によって織り込まれたキリストご自身が私たちの人間性を通して内発的に語る。また預言の霊は預言者に服するから、人の自由意志を無視したり、トランス状態や変性意識状態で語られるものではない。これらはむしろ危険である。


預言の生成機序(メカニズム)

様々の状況において霊のうちにある重い霊的感覚(センス)が生じる。その重さゆえに神の前でうめきを覚え、霊のエキササイズがなされる。この時ある種の苦しみと葛藤を経験するが、これが深いほどその重要性を知る。

こうして祈りと黙想、また御言葉と対峙するうちに、あらゆる真理に導く御霊の照明の下でそれは徐々に熟して内的に言語化される。ついにこれを外的言語として語り出す時、重荷も解放される。それまでの苦しみや葛藤が深いほどに、ことばに霊的エネルギーが蓄積され、また御霊の油も豊かに塗り込まれ、光と権威と力に満ちる。こうして語り手は解放され、任務を果たしたことを知る。

聞く側はそのことばに塗られたキリストの霊に触れ、単なる知識ではなく、光といのちに触れて潤される。霊は生き生きと躍動し、いのちの感覚が生まれ、解放感と平安、満足感と充足感が満ちる。このことばが内的に組織され、内なるキリストが形作られる。すなわち本質的預言はメタモルフォーシス、あるいはスピリチュアル・メタボリズム(霊的新陳代謝)を触媒する。

経綸的な預言はあくまでも神の主権により神が適切な器に適切な時に適切な言葉を与えるのであり、この聞いた言葉を語り出すとき経綸的な預言となる。


霊と魂の分離の必要性

預言の言葉は魂の思いに去来する諸々の観念や表象とは明確に異なり、霊に響くあるいは映るものである。この識別には霊と魂の分離が必要である。神の言葉は生きていて魂と霊を分離し、種々の考えや思惑を露にする力がある。預言者は御霊のメスである御言葉による霊と魂の分離手術を受ける必要がある。この手術には痛みが伴なうが、その痛みに比例して分離も明確であり、そのことばは澄み、光と洞察に満ちる。人々はそのことばの前で自分の真実を暴露され、神の御前にひれ伏すように導かれる。


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