御霊と人の関わりについて―油注ぎと油塗り-



聖霊は神の三格位の第三位の神格であり、パースンをもったお方であることはすでに述べました。ここでは人と御霊の関わりを解説します。まず推薦する参考書としては、アンドリュー・マーレー:『キリストの御霊』(いのちのことば社)、およびWatchman Nee: "The Communioin of the Holy Spirit", Christian Fellowship Publisher を挙げることができます。

旧約聖書においては、聖霊とか御霊という単語はあまり出てきません。神の霊とか聖なる霊という表現は多数観察できます。神の三位一体は本質的に永遠から永遠に普遍ですが(本質的三位一体)、人間とのかかわりにおいて徐々に啓示されてきました(経綸的三位一体)。

旧約時代の神の霊と人の関わりは経綸的な意味を帯びており、ある特殊の人々−例えば祭司預言者−がその職務を得るときに彼らの上に(upon)神の霊が臨んだのです。これは実際上彼らの頭に油を注ぐという行為によって見えない霊的リアリティを目に見える形で証ししました。例えば出エジプト28:41,29:7、レビ4:3,5、1サムエル16:13、1歴代誌16:22などを参照してください。

サウル王ダビデ王も油を預言者サムエルから注がれるとただちに神の霊が臨み、彼らは激しい預言状態に入りました(1サムエル10章、16章)。しかしサウルはその不従順によって神の霊は去ってしまうのです。またダビデもバテシバとの姦淫の罪を犯した際、「聖なる霊を取り去らないで下さい」(詩篇51編)と祈っています。

つまり旧約においては神の霊は神のご計画を遂行するために選んだ人々の上に、その職務をまっとうするために外的に経綸的に機能的な意味で臨んだのですが、神の霊は彼らのうちに住んで、彼らのいのちとなることはありませんでした。だから旧約の信仰の偉人はその信仰のゆえに義とされ、賞賛されても、いのちを得ることができなかったのです(ヘブル11:39,40)。それは新約におけるイエスの栄光化(=十字架の死と復活)を待たねばならなかったのです(ヨハネ7:39)。

さてこのヨハネ福音書7:39の原文を見ますと「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだなかった からである」(新改訳欄外注)とあります。御霊は"なかった"のです!?この言葉はきわめて不思議な言葉です。なぜなら神の霊は永遠にあるからであり、神の三位一体はつねに父、子、聖霊の同時同在される唯一の神と言う形で定言化されるからです。ヨハネよ、神の三位一体の神学の理論に抵触するよ、と言いたいところですが、注意してほしいのは、神学が先にあるのではなく、神のことばが最初にあるのです!文字通り御霊はまだ"なかった"のです!

アンドリュー・マーレーはここできわめて深い霊的洞察を与えています。つまり旧約時代には神の霊は単なる神の霊であったのですが、イエスの受肉によって、その人間としての霊の中に住まわれ、人間生活を経験した霊、イエスを証しされる霊として注ぎ出されたのです(ヨハネ16:13−16)。ゆえにイエスが栄光化される前には"なかった"のです。

ここで神はイエスの受肉と人間生活、そして十字架の死と復活を通して、神と人の関係の新しい霊的次元を開いてくださったのです!これは決して旧約の人々が経験し得なかった関係です。つまり新約では神の霊はイエスの人間性を証しし、私たちのうちに(in)内住され、私たちのいのちとなって下さるのです。キリストは人間性を着たまま昇天されると同時に復活の領域でいのちを与える霊となり(=物理的な制限を受けない存在:1コリント15:45)、御霊によって私たちのうちに臨在されるのです。

キリストは天にいますだけではなく、私たちのうちにいます方です(ガラテヤ2:20、2コリント13:5)。しかも彼は今だに人間性を帯びています。アダムにあって損なわれた人間性を神はキリストにあって回復し、さらに栄光化されたのです。今や御霊は"イエスの御霊"(使徒16:7)、"キリストの御霊"(ローマ8:9、1ペテロ1:11)、"イエス・キリストの御霊"(ピリピ1:19)として、ご自分からは語ることなく、イエスからのものを受けて語り、イエスのパースンとわざを証しされ、イエスに栄光を帰する霊として、私たち人間との関わりを得られるのです(ヨハネ16:13-16)。

パウロは言います:「主は御霊である」(2コリント3:17)。ここの「主」が文脈から見てキリストであることは明らかです。もちろんキリストと御霊は位格として区別される存在ですが、彼にとってイエスの臨在と御霊の臨在は等価なのです。御霊は私たちのうちにおいていのちとなり、キリストの人間性を証しし、私たちを主(=キリスト)と同じ形へと栄光から栄光へと変えて下さるのです(2コリント3:18、ガラテヤ4:19)。

したがって御霊は私たちのいのちであり、旧約のように離れ去ることがありません(ヨハネ14:16)。イエスの人間性によって人間の弱さ、苦悩、葛藤、悲しみなどあらゆる経験を経た方として、私たちの霊と共に神を「アバ、父よ」と呼ぶ霊、私たちを神の子とする霊として、私の弱さを憐れみ、とりなしをしてくださり(ローマ8:26,27)、いつまでも共にいます慰め主であり、助け主なのです。イエスは「別の助け主を送る」と約束されましたが、この「別の(allon)」という単語の意味は「他の同質の」という意味です(ヨハネ14:16,Vincent)。このようないのちを証しする御霊の内住を内的にして本質的ないのちの満たしと言えます。旧約にはなかった深いいのちの関係の地平が開かれているのです。

今日一般に"Anointing"という単語に対して邦訳聖書はすべて「油注ぎ」という訳語を与えています。このため御霊は注がれるべき ものという潜入観念が蔓延しており、特に聖霊派において油注ぎの大きい器から按手を受けたりして、御霊の注ぎを求めることがなされています。しかしこの「油注ぎ」という単語だけを与えることは私たちの霊的生活をきわめて不安定にします。聖霊は誰に対してもすでに 注がれています。そのことを単純に信じればよい だけです。

私たちのうちには塗り油がすでにあります!聖霊はひとりのパースンをもった方であり分けられませんから、注ぎの多い者とか少ない者などありません。クリスチャンであればみな聖霊の内住を得ています。そしてそれは御父と御子がうちにいてくださること(ヨハネ14:17)、つまり三位一体の神が内住してくださるのです(1ヨハネ3:24)父、子、聖霊は三人のバラバラの神々ではありません!(ヨハネ14:10,11)

私は「外的経綸的機能的な満たし」を「油注ぎ」と呼び、「内的本質的ないのちの満たし」を「油塗り」と称しています。英訳聖書では"Anointing"に対して「注ぎ」の意味と「塗り」の意味を訳し分けています。邦訳でも例えばレビ記14章を読んでいただくと分かりますが、らい病の癒しには油を注がれた祭司が、患者の体に血(=イエスの血の予型)を塗り、その後油(=聖霊の予型)を塗って います。イエス自身、聖霊によって受胎し(マタイ1:20)、内的ないのちとして聖霊を得ていましたが、公のミニストリーに入る前に聖霊の外的満たしを得ました(ルカ3:22)。これはイエスの人性を予表するレビ記2章の素祭においても、小麦粉(=イエスの人性)はまず油(=御霊)と混ざり合わされ(内なる満たし)、さらにその上に油が注がれる(外なる満たし)ことにより予表されています(レビ2:4,6)。

1ヨハネ2:27に「注ぎの油が」とあるのは邦訳の意訳です。このため聖霊派では、この油は聖霊のバプテスマを受けて得た油であるとして、この油を受けるために「注ぎ」を求めるわけです。しかしこの油は聖霊のバプテスマで注がれる油ではありません。英訳では「キリストから受けた油」であり、Darby訳は"unction(塗り油)"を用いています。原語は"chrisma"であり、Strongでは"unguent, smearing(塗り油・軟膏、油を塗る)"とあります。この御霊はあらゆることについて真理を教える御霊であり、ヨハネ福音書でイエスが信じる者すべてに 約束された御霊なのです(ヨハネ14:16、16:13)。

つまりこの油は聖霊のバプテスマのことを意味するのではなく、霊の再生されたクリスチャンのうちにいのちとして本質的に内住する御霊のことを意味しますNet Bibleなど)。実際英訳では"abiding(住んでいる)"となっています。クリスチャンであれば、誰でも得ている油であり、それは「イエスを主と告白する」(1コリント12:3)ことによって、聖霊の内住、すなわち「塗り油」の存在が確認されるのです。また邦訳でも岩波訳は「塗油」、永井訳は「また汝らは彼より受けたる膏(あぶら)、汝らのうちに居れば」として正確です。「膏(あぶら)」はまさに塗るものです。

これに対してペンテコステ的な聖霊の満たしは外的経綸的機能的な満たしであり、現にそれは天の父の力を注ぐという約束に対する答えとして与えられたのです(ルカ24:49、使徒2章)。しかし弟子達はすでにイエスが復活した週の最初の日の夕方にイエスの息吹きとしての聖霊を受けています(ヨハネ20:22)。イエスの息吹きとはいのちを意味します。アダムが神の息吹きで生きる魂となったように、私たちはいのちを与える霊となったイエス・キリストの息吹きで生きる者とされたのです。これは本質的ないのちの内的満たしです。御霊のこの二面の満たしに注意する必要があります。教会との関係についてはこちらを参照してください。

再生とは本質的ないのちの内住として聖霊を受けることですからこれはただ一度の事件です。一方、聖霊のバプテスマとは、要するに聖霊に浸し込まれること(=「バプテスマ」の意味)ですから、外的な経綸的機能的な満たしを指すものであり、よってそれは程度にはいろいろあれ、必要な場面において何度でも経験し得ることです。現に私は二度の明確な身体的反応を伴なう聖霊の外的満たしを経験しています(注)
1回目は1982年5月、二度目は2002年8月イギリスでのキャンプの際、コリン・アーカートとひとつ霊のうちに歩むことを願う世界のパスターたち30名ほどで手を組み祈っていたとき、ノルウエーのエネヴァルド・フラーテンによって額にタッチを受けました。その時は何の変化もなかったのですが、席に戻ってから足腰が立たなくなり、ふらふらしてキャラバンに戻り、2時間ほど立てなかったのです。帰ってきて私のミニストリーの質は明らかに変わりました。

注意すべき点は一部の聖霊派では聖霊のバプテスマを受けていないと救われていないとか、聖霊のバプテスマには異言を伴なうべきであるとか言われていますが、これは誤りです。救い(=霊の再生)と聖霊のバプテスマは別のものであり、また聖霊のバプテスマは徴や現象によって判断すべきものではありません(彼らから判断されると私は偽者となりますね。霊的経験を「型」にはめ込まないでね〜と思います)。繰り返しますと、神学の定式化が先にあるのではなく、霊的リアリティが先にあるのです。父が聖霊を下さると約束しているのですから、その御言葉に対する信仰だけが条件です。神は必要なときに力として御霊で満たして下さいます。

さらにここで大切な点は、御霊が外的にも内的にも与えられるのは、ただイエスの死と復活のゆえです。唯一の油注がれまた油塗られた方はイエス・キリストです。「キリスト」とは"The Christ"、「油注がれ、塗られた者」の意味です。私たちが勝手に御霊を注いで、あるいは塗っていだけるのではなく、私たちがキリストの体の一部であるからなのです。ここでキリストの頭主権に服することが本質的要件になります。頭なる方に服すること、外的に油を注がれ、内的も油塗られる条件はここにあります(詩篇133編)。

この意味で賜物を振り回して預言や金歯金粉などの徴や不思議だけを追求したり、聖霊とイエスを分離して「注ぎ」を追求する今日の傾向には強く警鐘を鳴らしたいと思います。今日の聖霊派の聖霊や預言の理解や実行はきわめて旧約的なのです。マタイ7:21,22によれば、かの日にそれらの人々は主から知らないと言われます(注)。対して主の来臨の時に恥を受けることがないのは塗り油にとどまる人です(1ヨハネ2:28、ヨハネ15章も参照)。

:この人々はイエスを主と呼びますから、聖霊を受けています(1コリント12:3)。よってクリスチャンです。主の名によって預言をし、徴・不思議、悪霊追い出しをしています。しかし父の御旨を行っていません。彼らはイエスによって認知されず、報酬としての御国をミスしますが、滅びるわけではありません。救われていても報酬を得ないのです。ここで神の国と御国の関係がポイントになります。別に「千年王国」のところで論じます。

神と人の関係はすべて御霊によります。しかも旧約と新約ではそのかかわりは本質的に相違しています。御霊と人の関係の二面性がバランスよく理解され、経験される必要があります。そしてこれが新約における真の預言などの賜物やミニストリーの理解と実行にとって本質的なのです。

(C)唐沢治

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