1.人物像
若く美しく、知恵と思慮に満ち、異郷においても神への信仰が篤く、同胞のためには自分の命を投げ出すこともいとわない女性でした。時代背景は、BC586年、エルサレムはバビロンによって滅ぼされ、多くの民が捕囚として連行されました。下ってBC539年、バビロンを滅ぼしたペルシャ王キュロスによって、故国への帰還が許されますが、しかしペルシャに残留する者たちもおり、同国にあって高い地位を得るユダヤ人がおりました。その中の一人がエステルの養父であったモルデカイでした。
2.主要なエピソードとその霊的意義
物 語
ペルシャ王アハシュエロスは王妃ワシテの不従順を理由に、彼女を失脚します。新しい王妃の募集に際してモルデカイはエステルを送りますが、彼女は王の愛顧を得て王妃として選ばれます。ところが王の取り巻きであったハマンは自分に対するモルデカイの態度が気に入らないために、モルデカイばかりではなく、国内のユダヤ人全体の虐殺を謀り、王に取り入って勅令を発することに成功します。それを知ったモルデカイはエステルに対してその勅令の撤回を王に要請するように働きかけます。
エステルは仲間のユダヤ人に断食の祈りを実行させ、自らは同胞のために死をも覚悟して時期を待ちます。王とハマンをある宴会に招き、そこで王から何でも望むものを得る約束を得ます。次にまた宴会に彼らを招きますが、その前の晩に王は寝つかれず、年代記を読みますと、その中にかつてモルデカイが王の暗殺計画を知って、エステルを通して王に通告して、その計画を阻止していたにもかかわらず、報奨を得ていないことを見出しました。そこで王はハマンに対して功績を挙げた者への褒美をたずねますと、ハマンは自分がもらえるものと思って最高の褒美を提案しますが、実はそれはモルデカイに対するものでした。
次の宴会でもエステルは王から何でも望むものを得る約束を得ますが、その2日目にエステルは時期を得て、ついにハマンの陰謀を王に告げ、ハマンは自分でモルデカイの処刑のために建てた柱に自分がつるされて処刑されました。こうしてモルデカイが代わってハマンの地位に就き、王はエステルにユダヤ人を保護する新たな勅令の発布を許し、あたかも旧契約の律法は存在したままで、イエスによる新たな恵の新契約によって私達が赦されているのと同様に、ついにユダヤ人は第二の勅令によって第一の勅令から守られて虐殺の策略から解放されました。この物語を記念して、現在でもユダヤ人はアダルの月(2、3月)の14、15日に「プリムの祭り」を祝います。
霊的意義
聖書の中でルツ記とならんで、神の働きが直接的には表に出てこない書です。旧約聖書の前半のように、物理的な方法を持って直接的に介入される神を描くのではなく、歴史の影に隠れていわば摂理(Providence)によって働かれる神を描いています。よく歴史には"if"はないと言われますが、もしエステルが王妃にならなかったならば、もしモルデカイがハマンの謀略を知ることがなかったら、もしモルデカイの功績が年代記に記されることがなかったならば、もしエステルが王に働きかけるのを一晩延期しなかったら、もし王がその晩に年代記を読まなかったならば、もし王がモルデカイに栄誉を与えることを思いつかなったならば・・・と考えると、これらの諸条件が一つでも欠落していたならば、ハマンのユダヤ人虐殺は決行されていたかもしれないわけです。
その一つ一つの場面においては、人の目においては単なる偶然と見える事件の積み重ねですが、神の目にはすべて素晴らしい配剤のもとで、いわば計画されていたことなのです。これは私たちがそれぞれ救われた時のことを思い出して見られればお分かりになることと思います。もし、もし、もし・・・と考えれば、それは素晴らしいタイミングで実現した、奇跡的な事件であったことに気がつかれるでしょう。
ただしここで大切なことは、エステルは同胞のためには自分の命をも投げ出す決意をして、神の摂理に応じたことです。すなわちここには私たちの側の自由意志を活用した信仰による見えない神への応答があります。一方で神の御旨があります。他方では私たちの信仰(応答)があります。この神の御旨と私たちの信仰が凹と凸のようにきれいにはまるとき、そこには素晴らしい人知を超えた神のわざが実現するのです。
ですから私たちは日々の生活の中で起きてくるさまざまの問題とか欠乏とか困難に煩わされる必要はありません。神の許しがなければ空の鳥も一羽として落ちることがなく、また私たちの髪の毛もすべて数えられていることを覚え、そのような神の御手の中にすべてが配置されていること、神のタイムテーブルに従って事がなされていることを信じて、神の良き御旨の内に安息しようではありませんか。
3.神の全計画における意義
神はご自身の祝福を地上のすべての民にもたらすために、一つの民を選ばれました。アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヤコブの12人の子供たちを族長とする12部族からなる一つの国民でした。残念ながらその国は二つに分かれ、しかも神に対する不従順と反逆の歴史を送りました。その報いとして北王国はBC.721年にアッシリアによって滅ぼされ、南王国もBC.586年バビロンによって滅ぼされます。この段階で人間の目には神の目的は挫折したかのように見えます。しかし神にはつねに方法があります。このような中においても神はご自身の民(レムナント)を残しておられ、しかも彼らをサタンの狡猾な攻撃からご自身の摂理・配剤によって守られるのです。
もし彼らが虐殺されて歴史から姿を消していたならば、当然の事ながら私たちの救い主イエス・キリストも地上に来られる術がありませんでした。なぜなら救いはユダヤ人から始まるからです。神は現代においては旧約の初期のような物理的かつ直接的な介入を多くの場合なさいませんが、しかし歴史あるいは私たちの日常の背後に隠れた方として、そのくすしい御業を小さな事件の積み重ねにおいて成し遂げられるのです。この意味で私たちの生活あるいは人生も、エステル記の延長上にあるものとして、エステル記を読むとき、背後に隠された神の御旨と御心に触れ、私たちの信仰による応答によって神の御業が成し遂げられつつあることを知る時に、大いなる慰めと励ましとを得るのです。