ヨセフ

−神が共にいます人生−




1.人物像



ヤコブがラバンに仕えて後、カナンの地に帰る6年前にパダン・アラムで生まれた(B.C.1915;異説B.C.1733)、彼の妻ラケルによる彼の11番目の子。ヨセフの意味は「加える」に由来します。ヨセフは兄たちにまさってヤコブの寵愛を受け、兄たちの悪事をヤコブに告げるなどしたために、彼らの嫉妬と憎悪を買います。その上に、夢の中で彼らが自分を拝するようになるという幻を見たことを彼らに告げたため、兄たちはヨセフを殺すことを企てました。その後の苦難を経つつも、神からの際立った能力によってエジプトで高位につき、兄と再会しますが、自分を売り払った兄たちに対して、憐れみと慈しみをもって対応します。彼の二人の息子、マネセとエフライムは後のイスラエルの12部族を構成します。ヨセフは知恵と正義感が旺盛な一方、若気の至りによる無邪気な高慢さがあり、兄たちに対する適切な配慮を欠いており、その実を自ら刈り取りますが、神の取り扱いを受けて、砕かれかつ練り上げられ、イスラエルの12部族を生み出すための重要な役割を果たします。またその生き方の様は後のイエスと共通する要因が多く見られます。



2.主なエピソードとその霊的意義



2.1.エジプトに売られる

 

物 語
ヨセフはヤコブに兄たちに勝って可愛がられますが、そのことにより兄たちの嫉妬を買います。しかも彼は、ひときわ背丈の高い小麦に対して、後の11本の小麦が頭をたれる夢を見、その背丈の高い小麦は自分であって、他の小麦は兄たちであるとの解釈を兄たちに向かって語ってしまいます。これによって兄たちは彼を殺そうと企てますが、結局イシシュマエル人に売られ、エジプトへ連れて行かれます(B.C.1898;異説B.C.1733)。兄たちはヤコブに対してはヨセフが野獣に殺されたと報告し、動物の血のついた彼の着物を証拠として提示します。ヤコブはこのことで非常に悲しみ、苦しみました。


霊的意義

ヨセフは確かに父と神の愛顧を兄たちにまさって受けた人物でした。しかしながら彼の正義感と無邪気な率直さは生まれつきのものであり、その動機に悪意はなかったにしても、兄たちに対する配慮がまったく欠落していました。そのために彼は自らの上に苦難を招くことになります。しばしば神の選びと祝福をめぐっては聖徒たちの間でも嫉妬やねたみを引き起こします。仮に自分がヨセフの立場であったならば、兄たちに対してどのように振舞うべきでしょうか。あるいは仮に自分が兄たちの立場であったならば、ヨセフに対してどのようにすべきでしょうか。この課題は今日のクリスチャンにとっても切実な問題であり、私たち自身が誠実に対応すべき課題であると言えます。霊的な選びと祝福についての嫉妬こそは、ほとんどの聖徒間あるいは教会間における諸問題の原因と言えます。しかし神はそのような消極的問題をも、将来に向けてのご自身の御旨と御計画の実現のために用いられるのです。


2.2.冤罪による投獄と出世


物 語

エジプトで彼はパロの侍従長ポテファルのもとに売られ、彼の奴隷となります。そこで彼は神の霊の臨在によってあらゆる事で成功を収めて認められ、ポテファルの家財の管理をすべて任されるほどになります。ところがポテファルの妻はヨセフを誘惑しようとしますが、彼は神に仕えることを優先してそれを拒みます。そこで彼女は彼をわなに陥れて、ヨセフは王の牢獄に入れられます。しかしそこでも彼は信用を得ます。そんなある日パロの献酌長官と料理長が投獄されてきます。ヨセフが解き明かした彼らの夢はその通りに実現しますが、献酌官は解放された後、しばらくはヨセフを忘れていますが、パロが見た2つの夢を解ける者が誰もいなかった際、ヨセフのことを思い出します。そしてパロはヨセフに自分の夢の解き明かしを命じますと、ヨセフはその夢がこれから神のなさるであろう業を意味していると解きます。すなわち7年間の豊作と7年間の飢饉です。ヨセフはパロに豊作の時に蓄えをするように進言しますと、彼はパロの信用を得て、エジプト全土の管理を任されるに至ります(B.C.1885;異説B.C.1720)。彼はオンの祭司ポテ・フェラの娘アセナテと結婚し、マナセとエフライムをもうけます。果たして彼の夢の解き明かしのとおりに7年の豊作と7年の飢饉が訪れました。

霊的意義

ヨセフには神がついておられたので、そのなすことはすべて栄えますが、そのような人物に対してはサタンの働きも活発になされます。自分の主人の妻の誘いを、神に対して忠実であることを願って拒否することによって無実の罪で投獄されます。これはイエスの経験と共通します。私たちはしばしばこのような事態に遭遇しますと、神はなぜ自分をこのような目に会わせるのか、とつぶやきます。神に従うことはしばしばこの世からの攻撃を招きます。しかし彼は牢獄においても忠実であったために、その悲劇の中でも信頼を勝ち取り、さらに神によって与えられた賜物を用いて、エジプトの管理者にまで昇ります。彼は自分の蒔いたものの刈り取りを忠実になす間に、着々と神の取り扱いを受けて、その品性が練られていきます。無邪気な率直さは、徐々に思慮を伴った大人の誠実さに変えられるのです。あらゆる環境はすべて神によって量り与えられていますから、私たちの責務はその状況において、なぜ神はこんな境遇を許されるのかと問うのではなく、その中で忠実であることです。時が満ちれば神は私たちを高く上げて下さいます。こうして彼はエジプトの危機を回避することができますが、実はこのことは次のヤコブと兄たちとの再開への布石でもあったのです。


2.3.再 会

物 語

エジプトの飢饉はカナンの地にいたヤコブたちにも及びます。彼は食料を得るために10人の息子たちをエジプトに送りますが、彼らはすでにエジプトの管理者になっていたヨセフの前に来て、彼に伏し拝みます。こうしてヨセフのかつての夢は成就します。神からの幻は必ず成就します。ヨセフは兄たちと知りつつも、弟のベニヤミンのことで兄たちを試みます。再度ベニヤミンを連れて兄たちがヨセフのもとを訪れたとき、彼は彼らに自分がヨセフであることを、ついに堪え切れなくなって明かし、自分がエジプトに売られたのはこの日のために主が備えられたことであるとして、彼らを赦します。こうしてヤコブと兄たちはエジプトに移住し、エジプトの地で大いなる国民となるという神の約束を得ます。ヨセフは父ヤコブが死ぬとカナンの地に彼を埋葬します。こうして自分も110歳で死に、後に主エジプトの際に彼の遺骨はカナンの地に戻され、シェケムに埋葬されました(B.C.1805;異説B.C.1640)。


霊的異義

ヨセフはいわば"理不尽な"神の取り扱いを受けましたが、それは神のご計画の中で見事に配剤された事件であったのです。人の目には単に嫉妬から生じた邪悪な事件であるとしか見えませんが、神はこのような事件さえもご自分の栄光のために用いることができます。ヨセフはこの取り扱いを通して、神の手に触れられて、当初の生まれついての無邪気な率直さから、練られた大人の思慮を伴った誠実さを身につけます。この点ではヤコブと共通する要素があります。神は私たちの生まれついての要素を一旦は拒否され、ご自分の御霊の働きによるご自分の性質を私たちのうちに養うことを願われます。また神の選びは、イサクヤコブ、ヨセフ、さらに後のダビデの場合もそうであるように、肉的な兄たちを差し置いて、弟が得る場合が多いのです。実際、後になると初子はすべて神に捧げられるべきであるされます。最初のものは朽ちるべきものであって、その死の後の復活によってもたらされる第二のものが神にふさわしいものとされます。ここでも神の業における"死と復活の原則"が見出されます。ヤコブが神から得た嗣業はこうしてヨセフへと伝達され、ヨセフは後の12部族からなる王国への準備をなします。



3.神の全計画における意義



ヨセフの生涯を一言でまとめますと、「このように神の霊が宿っている人はほかにいるであろうか」というエジプトのパロの言葉に集約されます。神の霊の共にいます者は、そのなすところはすべて繁栄します。彼の生涯は後のイエスのそれと共通する要因が多々観察されます。

例えば、父に愛されること、父の羊を飼うこと、父によってその兄弟のところに遣わされること、兄弟たちに拒否されること、人々の攻撃を受けること、誘惑されること、エジプトへ連れて行かれること、ローブを取り去られること、奴隷の値段で売られること、鎖に繋がれること、偽りの告発を受けること、2人の囚人と一緒になり、しかも一人は釈放され、一人は処刑されること、公生活に入るのがおよそ30歳の頃であること、苦難の後高くされること、自分を傷つけた相手を赦すこと、その民を救うこと、人々による邪悪な振る舞いが神によって善き事に変えられることなどです。

旧約の彼の生涯は新約のイエスの生涯のイラストであって、事実彼の子孫からは後のヨシュア(ヘブル語の「神は救う」すなわちイエスを意味する単語)が出ます。また今日の私達の人生にあって起きてくる様々の事件、例えそれが理不尽なものであったとしても、その中で「何故?」とつぶやくのではなく、「自分は、今、神に従って何をなすべきか?」と問う時に、神はそのことを私達にとって善き事へと変えて下さるという確証を与えるのです。ヨセフがイエスと同一視されるように、今日私達もイエスと同一視されるのです。キリスト・イエスのうちにある私達も、世の人々から上のパロの言葉を言ってもらえれば素晴らしいことです。


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