1.人物像
エフライム族のヌンの子。ヨシュアの名は新約聖書で言うとイエスであって、"神は救う"の意味です。元々はホセアでしたが、モーセがヨシュアと呼びました(民13:16)。モーセの助手として登用され、後にモーセの後継者として任じられ、民の不信仰を叱咤激励して約束のカナンの地に入り(B.C.1406;異説B.C.1240)、巧みな戦術を持って民を指揮することによってその地を征服し、12部族ごとにその地を割り当てます。モーセと共に出エジプトした成人たちはみな不信仰に陥って、敵の前で恐れおののきモーセにつぶやくことにより、神の裁きを受けて滅ぼされてしまいますが、彼とカレブは大胆に神の言葉を宣言して前進し、ついに良き地に入ることができます。彼はモーセの忠臣として生活する中から、神に対する信仰と従順によって生きる生き方を訓練されていたのです。彼の生き様を通して、神がその御旨を地上でなされるとき、その実行者としての器が必要であり、しかもその器は神に対する従順と信仰によって、神に仕え、神の領地の拡大に参することが最重要であることを見ることができます。
2.主要なエピソードとその霊的意義
2.1.ヨルダン川を渡る
物 語
神はモーセに「あなたがたに安住の地を与え、あなたがたにこの地を与える」と宣言され、カナンの良き地を与える約束をされました。モーセ亡き後、その後継者に立てられたヨシュアは、ついにその実現へと向けて民をリードし始めます。まず彼はエリコに2人の斥候を送ります。彼らは遊女ラハブの家に泊まりますが、彼女は主がなされたわざを伝え聞いており、2人の斥候を守ります。その際ヨシュアがエリコを攻める際には、窓から赤い紐をたらしておくことにより、その攻撃から家族もろともに守られる約束を得ます。こうして斥候は3日間隠れた後、ヨシュアの元に戻り、主がその地を渡されたことを報告します。
ヨシュアは翌朝シティムを経ち、ヨルダン川の川岸に3日留まった後、ヨルダン川を渡ります。まず祭司が契約の箱をかついで激流のヨルダン川に一歩を踏み入れますと、川の流れはその上流でピタリとせき止められ、彼らがみな渡り終えると、水は元の流れに戻るのでした。こうして彼らは主の不思議なわざを記念して、川の中から12の石を持ち来たりてギルガル("転がる"の意)に記念碑を建て、民に割礼を施し、また過ぎ越しの生贄を捧げました。この時ヨシュアは抜き身を振りかざす不思議な武将に出会いますが、彼は味方であると宣言して、ヨシュアに「聖なる地であるから履物を脱げ」と命じました。
霊的意義
神はすでに約束を下さっております。しかしながらかつての偵察隊に出たヨシュアとカレブ以外の者たちはその地に巨人が住んでいるなどの目に見える光景に怯え、民はその報告を聞くと不平不満をモーセに訴えました。そのために今や良き地に入れるのはヨシュアとカレブだけとなっていました。ヨシュアはモーセから受け継いだ信仰の霊によって果敢に進軍してきましたが、いよいよ攻撃開始に当たって、一つの難関を通るべき場面に来ています。激流のヨルダン川です。ここで斥候を出しますが、ラハブはヨシュア軍が主の軍隊であることを知って、信仰をもって彼らを遇します。この時の"赤い紐"はもちろん信仰によるイエスの血による救いを予表しています(ヘブル11:31)。
さて斥候の報告を聞いたヨシュアは、イエスの復活と同様に3日待った後、ヨルダンを渡る前の晩に「主が不思議をなされる」と宣言して、民を鼓舞します。信仰はすでに目に見える以前に、私たちの口を通して宣言されるのです。するとその通りになるのです(2コリ4:13、マタイ8:13)。大切な点は、私たちが信仰による一歩を踏み出す際、目の前の激流が止まったのを見て、そうするのではありません。それを見る前に、信仰による一歩を私たちの側が踏み出すのです。信仰は目に見えることではなく、聞くことによります。そして真に聞いて信じたら、行為が伴うのです(ヤコブ2:17,22)。むしろ神が私たちの信仰による従順を見て、私たちの信仰に答えて下さるのです。そして渡り終えた後、あたかもモーセによる葦の海の歩み渡りの時と同様に、モーセはその記念碑を立て、割礼と過ぎ越しで神を礼拝します。この際に出現した武将は一体どなたなのでしょう?そうです、「わたしはある」とモーセに宣言し、履物を脱ぐことを要求された主なる方、後に受肉されたイエス・キリストそのお方です。ヨシュアにとって何と言う励ましであったことでしょう!
2.2.エリコの陥落とアイでの敗北
物 語
そびえ立つエリコの城壁を前に、ヨシュア軍は何を考えたことでしょう。ここで主はヨシュアに言われます、「エリコをあなたの手に渡した。町の周りを1日に1回、6日間まわり、7日目には7回まわれ。そして祭司が角笛を吹き、民はときの声を上げよ」と。ヨシュアと民はその通りに行うと、難攻不落に見えたエリコの城壁は一瞬にして崩れ、彼らは勝利を得るのでした。こうしてエリコのすべてを聖絶しますが、先のラハブとの約束によって彼女の一家だけは救いを得ます。
ところがアカンが主の命令を守らず、エリコからの物を隠し持っていたために、主は怒ります。次の町アイに遣わされた斥候は、アイが小さな町であることを見、またエリコでの輝かしい勝利に酔って、アイをなめてしまいます。結局ヨシュア軍は敗退を余儀なくされ、36人が殺され、民は意気消沈し、ヨシュアさえも主に嘆き訴えるのでした。しかしこのような敗北の際のヨシュアの祈りは大切です。彼は主に対して、「あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか」(7:9)と問いかけました。自分達の面子の回復のためでなく、御名のために祈ったのです。
すると、くじによって、その原因であったアカンが暴かれますが、この際にもアカンの罪を暴き出すことを第一にするのではなく、「わが子よ、イエスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい」(7:19)と言うものでした。ここでも主に栄光を帰する事を第一としています。こうしてすべてを告白したアカンは処刑されます。その後巧妙な戦術によってヨシュアはアイを打ち、勝利を得ます。こうしてエバル山に祭壇を築き、主に全焼の生贄と和解の生贄を捧げました。こうして主とヨシュア軍の名はカナン全域にとどろき、その地の王たちは恐れる一方で、みな一丸となってヨシュアに姦計をもって立ち向かうのでした。しかしながら主の軍隊の前では勝敗は明白でした。
霊的意義
信仰は聞くことから来ます(ローマ10:17)。しばしば人は、エバのように目に見えることによって欺かれ誘惑に陥ります。イエスは、目の前に立ちふさがる山に対して、「動き出して海に沈め」と信じて疑わずに命じるならばそのとおりになると言われました。人の目にまったくナンセンスに見えます。私たちは問題を観察し、分析し、解きほぐして、解消を図ることを目論見ますが、神の方法はしばしば人の目に愚かに映ります。十字架自体がそれを証明します(1コリ1:23)。
エリコの攻撃も同じでした。エリコの民から見てみたら、このヨシュア軍の行動はほとんどナンセンスに見えたことでしょう。しかしヨシュア軍は神の言葉どおりを行ったのです。この信仰に応えて、神ご自身がその城壁を崩して下さったのでした。私たちは自分の抱えている自分にとっての"大困難"に対して、ただ神の言葉への従順によって応じればよいのです。これが神の問題解決の方法です。
しかししばしば油断はそのような勝利の美酒の後に訪れます。アイを軽く見た斥候も、その斥候の報告を真に受けたヨシュアも、また直接的原因となったアカンも、神の目から見るならば不従順という点でまったく同罪であったのです。神は生贄よりも従順を求めておられます。人の目に愚かなことを要求される神の言葉に、信仰と従順をもってお応えすること、これが私たちのなすべき仕事なのです。しかし失敗したら、悔い改めです。すでにラハブを救った"赤い紐"で予表されるイエスの血潮は流されているのです(ヘブル9:12)。問題に突き当たったならば、ヨシュアのように、第一に主がその御名のために何をなさるのか、また主に栄光を帰するためにどうすべきか、と問うならば、主は問題の本質とその対処法を教えてくださり、それに従うならば確実に勝利できます。
2.3.安息に入る
物 語
ヨシュア軍の進軍を聞いたカナンの地の王たちは同盟を組んで、彼らに対抗します。彼らは姦計をもってヨシュアを騙します。ヨシュアらも彼らの申し出に対して「主の指示をあおがなかった」(ヨシュア記9:14)ために見事にはめられてしまいます。こうしてカナンの地の王たちの一部はヨシュアと契約を結び、生き残りました。ところがエルサレムの王アドニ・ツェデクは他の4人の王たちと組んでヨシュアに立ち向かいます。しかしながら、信仰によって民を率いるヨシュアの敵ではありませんでした。神はヨシュアの信仰に対して、太陽と月の動きを止めて日を長くするという、「このように人の声を聞き入れた日は、後にも先にもない」と言われるほどの奇跡をもって彼をバックアップしたのです(注1)。
こうしてヨシュアはカナンの地を次々に征服し、ついに戦争は止み(ヨシュア記14:15)、次の段階として、くじによって12部族に割り当て地を配分しました(注2)。「こうして主は、イスラエルの先祖たちに与えると誓った地をすべて、イスラエルに与えたので、彼らはそれを占領してそこに住んだ。主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らに立ちふさがる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。主がイスラエルの家に約束されたすべての良いことは、一つもたがわずに、みな実現した」のです(ヨシュア記21:43−45)。こうしてヨシュアは民に対して主の御言葉に従い主を愛する道を取るように命じ、彼らと契約を結んだ後、110歳で眠りにつきました。
(注1)ハロルド・ヒルによると、NASAの天文学者たちの計算によって、この1日が発見されたという報告があるそうです。「キングズ・キッドの生き方」、p.p.84-100、生ける水の川。
(注2)ヤコブの12人の子供たちのうち、レビは祭司ですので地の配分を受けません。またヨセフに代わりヨセフの2人の息子エフライムとマナセを加えて、ルベン、シメオン、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、エフライム、マナセ、ベニヤミンで12部族となります。このうちユダとベニヤミンは後の南王国(ユダ)を構成し、残りは北王国(イスラエル)を構成します。北王国はBC721年、アッシリヤによって滅ぼされ、捕虜として連れ去られますが、その後の歴史から忽然と姿を消します。「失われた10部族」は今どこに・・・、古代史のロマンをかきたてるトピックです。
霊的意義
時としてこの世に生きている私たちはこの世からの申し出を受けることがあります。そしてその背後にはしばしば罠が隠されています。ヨシュアらの直面した問題はきわめて今日的であり、彼の対応も同じです。すなわち彼は主に伺うことをしなかったのです。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行くところどこにおいても主を認めよ。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな」(箴言3:5−7)。カナンの地に敵の王たちを残しておいたことが、イスラエルにとって将来に禍根を残すのです。しかし神は万事を益とされ、ヨシュアの信仰に奇跡をもって応えて下さる方です。人の不実が神の真実を無にすることはあり得ません(ローマ3:3)。
こうして神はご自分の約束をその通りに一つもたがわずにイスラエルに対して果たします。新約時代の私たちにあってはすでにキリストが十字架で勝利されています。あらゆる敵の武装を解除して(コロサイ2:15)、キリストは私たちを天の所へと引き上げ、ご自身と共に座に着かせてくださったのです(エペソ2:6,4:8)。信じる者はその良き地における安息に入ることができるのです(ヘブル4:1−3)。現在神の約束はすべて、ひとつもたがわずにキリストにあって「アーメン」とされています(2コリ1:20)。ヨシュアこそ今日のイエスです。このまことの征服者ヨシュア、すなわちイエスが私たちの復活の初穂として私たちを率いて下さるのです。私たちの責任(responsibility:応答性)はただそれを信じ、従うことのみです。勝利は確実です。不信仰によってその安息に入りそこなうことのないように祈りましょう。
3.神の全計画における意義
アブラハムに神の約束が与えられました。イサクにおいて死と復活を通じてそれは実現し、ヤコブにおいて神の御手の働きが臨み、この3人のパーソナル・ヒストリーにおいて父なる神の約束、復活の御子、そして聖霊のお取り扱いの予表を見ることができます。ついにヤコブの12人の子供たちによって約束の地が獲得されます。まさにそのクライマックスがヨシュア記に描かれているわけです。この書を読むときに、神のご計画が、人の側の不真実にもかかわらず、確実に成就されることの素晴らしさを見て、少なからぬ興奮を覚えます。
アブラハム・イサク・ヤコブの物語においては、父、子、聖霊の三位一体の神を見ることができましたが、ヨシュア記においては私たちの召命と責任と、さらに私たちがキリストにあって得たこの良き地を信仰と従順によってますます自分の物として体験的に獲得していくべき有様を見ることができます。キリストはすでにこの良き地を十字架で勝ち取って下さっております。事実はすでに成し遂げられています。今や私たちにそれは提供されています。しかしながら、その事実を自分の体験として享受するためには私たちの側の信仰と従順が要求されるのです。
モーセによるエジプト脱出はこの世からの離脱を意味します。私たちはすでに過酷なこの世のパロであるサタンの支配の下から御子の支配の下に移されています(コロサイ1:13)。しかしイスラエルがモーセの下でアマレク人と戦ったように、私たちには肉(flesh)を処置する問題があります。この肉をどのように処置するのか、これは日々の私たちの戦いの対象でもありますが、この時もポイントは信仰です。私たちはすでに肉を十字架につけてしまっているのです(ガラテヤ5:24)。
次に良き地を具体的に獲得するに当たり、サタンをその筆頭とする敵を処置する必要があるのです。これがカナンの地に住む先住民たちです(エペソ6:12)。この霊たちの具体的戦いこそ、キリストが勝ち取ってくださった乳と蜜の流れる地を楽しむためのカギです。私たちはその地を信仰と従順によって獲得し、キリストの具体的な恵みの支配領域を拡大していくべき使命に召されているのです。しかし勝利は確実です。万軍の主、神が私たちの大いなる後ろ盾なのです!「あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主だからである」(ヨシュア23:3)。